笹の墓標
「笹の墓標」という小説を読んだ。日本を代表するミステリー作家の一人、森村誠一氏が著した社会派推理小説である。殺人事件の犯人捜しを主体とする推理小説なのであるが、何が社会派なのかと言えば、戦時中に北海道でタコ部屋労働の犠牲になった日本人や朝鮮人の様相を描いているからだ。タコ部屋労働とは、未開の地が多くあった当時の北海道にあって、ダム建設や鉄道敷設等、労働者を厳しい監視下に置き、過酷な環境下で土木・建設工事を強いる重労働のこと。タコとは強制労働者、部屋とは強制労働者を監禁する部屋を指す。高収入の甘言に騙された失業中の日本人や、朝鮮からの強制連行者がタコ部屋労働に従事させられ、長時間に及ぶ肉体労働による過労や過剰な体罰等で多くの死者を出した。実際には収入のほとんどが住宅費や食費・日用品費等の名目で法外な金額を差っ引かれ、手元にはほとんど残らなかったという。北海道の開発にはこういった人権無視の労働者の存在があり、今の発展があることを忘れてはならない。推理小説でありながら「笹の墓標」はそんなことを現代に問いかける。
小説「笹の墓標」は、戦時中に雨竜第一ダム(朱鞠内湖)建設工事のタコ部屋労働に従事させられた朝鮮人労働者が脱走を企て、救援委員会の出先がある近文(旭川市)へ逃げ延びる場面からはじまる。雨竜ダムの建設でもタコ部屋労働者が多く犠牲になり、その死体は朱鞠内湖付近の光顕寺に運び込まれ、荼毘に付されることもなく、朱鞠内や添牛内の共同墓地周辺の山中に埋められたという。昭和55年(1980年)から日韓のボランティアによる発掘調査がはじまり、その現場は墓標も無い笹やぶが生い茂るだけの墓地であったことから、小説のタイトルとなる”笹の墓標”という言葉が生まれた。小説はタコ部屋労働からの脱走劇を描くプロローグから現代の遺体発掘調査へ時は流れる。その遺体発掘現場からタコ部屋労働者のものとは思えない腐乱死体が偶然発見され殺人事件が発覚、犯人探しに物語が展開する中、タコ部屋労働に関わった被害者と加害者らの子孫が現代で再び繋がりをみせ、その暗い歴史の闇を紐解いていく。

添牛内から朱鞠内へ移動。写真は朱鞠内駅跡に建つ朱鞠内バス待合所。JR深名線廃止後はJRバスが地域の足として運行されている。

朱鞠内バス待合所。雪原にぽつんと佇むモダンな建物が印象的。

朱鞠内バス待合所の内部。昼過ぎながらバスを待つ人はいない。朱鞠内地区に来る幌加内~名寄駅間のバスは1日6往復の運行。

JR深名線資料展示室の展示写真より。深名線廃止直前の朱鞠内駅。この駅舎は私も何度か訪れており、見覚えがあって懐かしい。現在の朱鞠内バス待合所が建つ場所にこの駅舎があった。

朱鞠内市街。さすがは北海道内有数の豪雪地帯。

歩道両脇に背丈以上の雪の壁。圧迫感が半端ない。

朱鞠内市街の国道275号から分かれる道道528号を北上、朱鞠内湖へ。

道道528号から朱鞠内湖方面へ至る道の分岐点に湖畔駅があった。ここがその跡地。単式ホームに簡素な待合所を設ける無人駅で、朱鞠内湖への最寄駅だったが、”湖畔”という駅名でありながら朱鞠内湖畔までは約2kmも離れている。開業は昭和31年(1956年)、朱鞠内湖への観光客を見込んで新設されたと思われるが、その機能を果たすことはなかったようで、平成4年(1992年)度の1日乗降客数は0人だったらしい。

朱鞠内湖畔にある遊漁者管理休憩所。この建物の奥が朱鞠内湖だ。

遊覧船の船着場は冬期休業中。雪に埋もれた自販機、温かいコーヒーは買えるのだろうか…。

湖面が凍結し雪が積もる朱鞠内湖。1月から3月にかけてワカサギを求めて多くの釣り人が訪れる。

厳寒の冬を感じる朱鞠内湖。気候条件が揃えばサンピラーやダイヤモンドダストの自然現象が見られるという。

朱鞠内湖は冬と夏では景色が一変、特に冬は北海道らしい景色を見せる。

朱鞠内湖を造り出した雨竜第一ダム。今やワカサギ釣りの名所として知られる湖は、多くのタコ部屋労働者の犠牲によって完成したことを忘れてはならない。

雨竜第一ダムは戦時中の昭和18年(1943年)に完成。それから70年以上もの歳月が流れたことになる。タコ部屋労働に従事した先人たちは、今の世を見て何を思うのか。

湖畔駅近くにある”手打ち蕎麦の宿 朱鞠内湖そばの花”。朱鞠内地区にある数少ない宿泊施設の一つ。1日3組限定で宿泊を受け入れ、夕食に幌加内産の蕎麦を堪能できるようだ。
手打ち蕎麦の宿 朱鞠内湖そばの花
http://orange.zero.jp/sobanohana.boat/index.html

”朱鞠内湖そばの花”近くにある笹の墓標展示館へ。冬期に開館しているのかわからず、入口にある田中宅の方に見学の可否を聞いてみたところ、「入口は開けてあるので、ご自由にどうぞ。」と快諾を得られた。

新雪を踏み分けながら笹の墓標展示館に。この建物は昭和9年(1934年)に真宗大谷派説教所の光顕寺本堂として建立、平成4年(1992年)まで本堂として使われた。光顕寺が廃寺となり空知民衆史講座が管理、笹の墓標展示館として一般公開し現在に至っている。名雨線(後の深名線)や雨竜ダム建設工事で犠牲となったタコ部屋労働者の遺体が一時安置された本堂である。

笹の墓標展示館内部。寺の本堂らしさを残す。館内にはタコ部屋労働犠牲者の位牌をはじめ、当時の工事現場を写したパネルや、遺骨発掘活動の様子、光顕寺創建時等の写真を展示する。

昭和9年(1934年)、光顕寺本堂落慶法要の様子(以下写真4枚、笹の墓標展示館の展示パネルより)。多くの檀家が祝賀に訪れたことがわかる1枚。

雨竜第一ダム土堰堤工事の着工2年目の写真。写真に堰堤の概念図を描く。

雨竜第一ダム土堰堤工事の着工3年目の写真。ダムの土台が出来つつある感じ。

雨竜第一ダム土堰堤工事の着工5年目の写真。今に見るダムが完成しつつある。まともな重機も無い時代、過酷な環境下のもと、人力だけでこれだけでこれだけのものを造り出したのだがら、命を懸けて労働に従事させられた先人たちの労苦は想像を絶する。せめて北海道の開発初期にはそういった労働者がいたことを心に留めよう。

笹の墓標展示館に残るタコ部屋労働者の位牌。強制労働の惨さを今に物語る。もし幌加内に訪れる機会があったならば、ここを訪ね位牌に手を合わせてほしい。

朱鞠内から旭川への帰途、せいわ温泉ルオントに寄りひとっ風呂。現代の平和な世は先人たちの過酷な労苦によって成り立っていることを忘れてはならない。そんなことを幌加内という町は思い起こさせてくれる。
撮影日:2014年12月30日(火)
【 参考文献 】
・森村誠一著(2009年)『笹の墓標』小学館文庫
・空知民衆講座編集・発行(1996年)『朱鞠内と強制連行・強制労働』
小説「笹の墓標」は、戦時中に雨竜第一ダム(朱鞠内湖)建設工事のタコ部屋労働に従事させられた朝鮮人労働者が脱走を企て、救援委員会の出先がある近文(旭川市)へ逃げ延びる場面からはじまる。雨竜ダムの建設でもタコ部屋労働者が多く犠牲になり、その死体は朱鞠内湖付近の光顕寺に運び込まれ、荼毘に付されることもなく、朱鞠内や添牛内の共同墓地周辺の山中に埋められたという。昭和55年(1980年)から日韓のボランティアによる発掘調査がはじまり、その現場は墓標も無い笹やぶが生い茂るだけの墓地であったことから、小説のタイトルとなる”笹の墓標”という言葉が生まれた。小説はタコ部屋労働からの脱走劇を描くプロローグから現代の遺体発掘調査へ時は流れる。その遺体発掘現場からタコ部屋労働者のものとは思えない腐乱死体が偶然発見され殺人事件が発覚、犯人探しに物語が展開する中、タコ部屋労働に関わった被害者と加害者らの子孫が現代で再び繋がりをみせ、その暗い歴史の闇を紐解いていく。

添牛内から朱鞠内へ移動。写真は朱鞠内駅跡に建つ朱鞠内バス待合所。JR深名線廃止後はJRバスが地域の足として運行されている。

朱鞠内バス待合所。雪原にぽつんと佇むモダンな建物が印象的。

朱鞠内バス待合所の内部。昼過ぎながらバスを待つ人はいない。朱鞠内地区に来る幌加内~名寄駅間のバスは1日6往復の運行。

JR深名線資料展示室の展示写真より。深名線廃止直前の朱鞠内駅。この駅舎は私も何度か訪れており、見覚えがあって懐かしい。現在の朱鞠内バス待合所が建つ場所にこの駅舎があった。

朱鞠内市街。さすがは北海道内有数の豪雪地帯。

歩道両脇に背丈以上の雪の壁。圧迫感が半端ない。

朱鞠内市街の国道275号から分かれる道道528号を北上、朱鞠内湖へ。

道道528号から朱鞠内湖方面へ至る道の分岐点に湖畔駅があった。ここがその跡地。単式ホームに簡素な待合所を設ける無人駅で、朱鞠内湖への最寄駅だったが、”湖畔”という駅名でありながら朱鞠内湖畔までは約2kmも離れている。開業は昭和31年(1956年)、朱鞠内湖への観光客を見込んで新設されたと思われるが、その機能を果たすことはなかったようで、平成4年(1992年)度の1日乗降客数は0人だったらしい。

朱鞠内湖畔にある遊漁者管理休憩所。この建物の奥が朱鞠内湖だ。

遊覧船の船着場は冬期休業中。雪に埋もれた自販機、温かいコーヒーは買えるのだろうか…。

湖面が凍結し雪が積もる朱鞠内湖。1月から3月にかけてワカサギを求めて多くの釣り人が訪れる。

厳寒の冬を感じる朱鞠内湖。気候条件が揃えばサンピラーやダイヤモンドダストの自然現象が見られるという。

朱鞠内湖は冬と夏では景色が一変、特に冬は北海道らしい景色を見せる。

朱鞠内湖を造り出した雨竜第一ダム。今やワカサギ釣りの名所として知られる湖は、多くのタコ部屋労働者の犠牲によって完成したことを忘れてはならない。

雨竜第一ダムは戦時中の昭和18年(1943年)に完成。それから70年以上もの歳月が流れたことになる。タコ部屋労働に従事した先人たちは、今の世を見て何を思うのか。

湖畔駅近くにある”手打ち蕎麦の宿 朱鞠内湖そばの花”。朱鞠内地区にある数少ない宿泊施設の一つ。1日3組限定で宿泊を受け入れ、夕食に幌加内産の蕎麦を堪能できるようだ。
手打ち蕎麦の宿 朱鞠内湖そばの花
http://orange.zero.jp/sobanohana.boat/index.html

”朱鞠内湖そばの花”近くにある笹の墓標展示館へ。冬期に開館しているのかわからず、入口にある田中宅の方に見学の可否を聞いてみたところ、「入口は開けてあるので、ご自由にどうぞ。」と快諾を得られた。

新雪を踏み分けながら笹の墓標展示館に。この建物は昭和9年(1934年)に真宗大谷派説教所の光顕寺本堂として建立、平成4年(1992年)まで本堂として使われた。光顕寺が廃寺となり空知民衆史講座が管理、笹の墓標展示館として一般公開し現在に至っている。名雨線(後の深名線)や雨竜ダム建設工事で犠牲となったタコ部屋労働者の遺体が一時安置された本堂である。

笹の墓標展示館内部。寺の本堂らしさを残す。館内にはタコ部屋労働犠牲者の位牌をはじめ、当時の工事現場を写したパネルや、遺骨発掘活動の様子、光顕寺創建時等の写真を展示する。

昭和9年(1934年)、光顕寺本堂落慶法要の様子(以下写真4枚、笹の墓標展示館の展示パネルより)。多くの檀家が祝賀に訪れたことがわかる1枚。

雨竜第一ダム土堰堤工事の着工2年目の写真。写真に堰堤の概念図を描く。

雨竜第一ダム土堰堤工事の着工3年目の写真。ダムの土台が出来つつある感じ。

雨竜第一ダム土堰堤工事の着工5年目の写真。今に見るダムが完成しつつある。まともな重機も無い時代、過酷な環境下のもと、人力だけでこれだけでこれだけのものを造り出したのだがら、命を懸けて労働に従事させられた先人たちの労苦は想像を絶する。せめて北海道の開発初期にはそういった労働者がいたことを心に留めよう。

笹の墓標展示館に残るタコ部屋労働者の位牌。強制労働の惨さを今に物語る。もし幌加内に訪れる機会があったならば、ここを訪ね位牌に手を合わせてほしい。

朱鞠内から旭川への帰途、せいわ温泉ルオントに寄りひとっ風呂。現代の平和な世は先人たちの過酷な労苦によって成り立っていることを忘れてはならない。そんなことを幌加内という町は思い起こさせてくれる。
撮影日:2014年12月30日(火)
【 参考文献 】
・森村誠一著(2009年)『笹の墓標』小学館文庫
・空知民衆講座編集・発行(1996年)『朱鞠内と強制連行・強制労働』

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