雲竜の松
【2015年4月4日(土)旧東海道 池鯉鮒宿→岡崎宿 道中】
猿渡川橋を渡って知立市から安城市へ。かつての東海道は猿渡川から松並木の街道を進んで今村の町家を通り抜け、立場が置かれた大浜茶屋村・宇頭茶屋村を経て尾崎村、宇頭村、暮戸村の町家を過ぎれば、矢作川西岸に位置する矢作村に辿り着く。矢作川に架かる矢作(矢矧)橋を渡れば岡崎城下である。現在、猿渡川から矢作川にかけての旧東海道は所々に松並木が残っていたり近年に植樹されたりして、往時の様子を感じながら歩けて楽しい。そんな中に特筆すべきは旧大浜茶屋村の永安寺境内に立つ雲竜の松。樹齢300年超えとされる雲竜の松は、力強い幹を周囲に伸ばす見事な枝ぶりの松で、私は1本の松を見てこれほどの感動を覚えたことはない。愛知県の天然記念物に指定されているが、国指定でもよいのではないかと思ったほど。近くに訪れた際は是非とも見て触れて、その生命力を感じてほしい。

猿渡川橋から旧東海道を東へ。松の下に咲くタンポポの小さな黄色が春の気分へいざなう。

今本町の旧東海道筋は所々に松並木を残す。

片側だけの松並木だが往時の東海道が感じさせる。

淺賀井(製)本社工場前の松並木が今本町の松並木東端。この先で松並木が途切れ旧今村の町家が並んだ。

今本町8丁目交差点付近の旧東海道。今村は江戸時代に池鯉鮒宿の定助郷村だった。

里町4丁目西交差点から旧東海道筋南側だけに松並木が現れる。これは北側沿いに野池村の町家が並んだ名残。

青麻神社と地蔵堂。

青麻神社の鳥居左隣に力士像。これは江戸末期から明治初期にかけて活躍した江戸力士、五代目・清見潟又市の石像。天保9年(1838年)三河国碧海郡前浜新田(現 碧南市前浜町)に生まれ本名を榊原幸吉、20歳で江戸相撲に入門し47歳まで現役を続けた。最高位は前頭筆頭、立ち合い時に相撲場外にまで届くほどの奇声を発する名物力士だった。

東栄町野池を行く旧東海道。

旧東海道松並木にて。薬剤を注射した記録紙が松を保護する人々の努力を物語ろう。大変なことだろうが、これからも松並木を育て守ってほしいと願うばかりだ。

東栄町の松並木。写真右手前の松は斜めに生えているため、幹に大型車が接触した形跡が。接触部分に虎柄の防護シートが巻かれている。

浜屋町に鎮座する日吉神社。

旧大浜茶屋村の京方端にあたる明治川神社交差点。ここから明治川神社の参道が延びている。

明治川神社交差点に立つ明治用水碑と明治川神社の鳥居。開渠と通水百年を記念する石碑2基が立つ。

明治川神社参道。

明治川神社神池と石橋。明治川神社は明治18年(1885年)建立。明治用水建設の功労者、都築弥厚、伊豫田与八郎、岡本兵松を祭神に祀る。境内に明治用水から水を引く神池があり、ここに架かる石橋の明治川橋は昭和2年(1927年)の改築。

明治川神社を参拝し参道を戻って。

明治川神社付近の明治用水。水路が暗渠化し桜並木の遊歩道が整備される。

浜屋バス停付近の旧東海道。かつて大浜茶屋村の町家が並んだ場所である。池鯉鮒宿と岡崎宿の中間に位置する大浜茶屋村は立場が置かれ、天保14年(1843年)には炒豆茶屋7軒、作間茶屋(農閑期に営む茶屋)6軒をはじめ、荒物屋、油屋、居酒屋等の店があった。蕎麦切りが名物。東隣の宇頭茶屋村との境で大浜湊(現 碧南市浜寺町)へ通じる大浜道、挙母・足助に通じる挙母道が分岐し、三河湾から遠く信州方面へ塩を運ぶために使われた。

旧大浜茶屋村の中心にある永安寺。

永安寺は大浜茶屋村の庄屋、柴田助太夫の霊を祀る。柴田助太夫は延宝5年(1677年)助郷役の免除を願い出て、領主の怒りに触れ刑死したと伝わり、この事件があったためか後に助郷役は一貫して免除された。その遺徳を称えて村民が草庵を結んだことに永安寺のはじまりがあり、寺地は柴田助太夫の屋敷跡とも伝わる。

永安寺境内で地を這うように幹を延ばす雲竜の松。

池鯉鮒宿と岡崎宿間は松並木や来迎寺一里塚等、これはと思う見所が多い中、この雲竜の松は度肝を抜かれる程の素晴らしい生えっぷり。これほどの松はそうそうお目にかかれない。

雲竜の松は柴田助太夫の屋敷にあったものなのか、永安寺建立時の植樹なのか不明だが、樹齢300年程と推定されている。幹が横に延びているため多くの支柱が立ち、管理するのも相当大変だろう。現在永安寺は無住の寺となっており、近隣の方がこの松を管理しているようだ。敬意を払いたい。

浜屋町(旧大浜茶屋村)の東隣、宇頭茶屋町へ。東海道筋に多くの茶屋があった宇頭茶屋は、江戸期を通して大浜茶屋とは隣接していながら藩領が違い、はじめ岡崎藩領に属し、宝暦13年(1763年)から幕府直轄、明和7年(1770年)に再び岡崎藩領に戻った。安政7年(1860年)には大浜茶屋と宇頭茶屋の間で茶屋営業をめぐり争論が起こっている。

宇頭茶屋町に鎮座する内外神明社。

宇頭茶屋町の法喜山妙教寺。法華宗陣門流.。

旧東海道と愛知県道76号が交差する宇頭茶屋交差点。この辺りは旧宇頭茶屋村と旧尾崎村の間に位置し、かつては松並木の街道だった。

宇頭茶屋交差点にある小堂。ピンクの桜と小堂、絵になります。

旧尾崎村の京方外れにある尾崎一里塚跡。江戸日本橋から83里目(約326km)、京三条大橋からは35番目(実測で約178km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となる一里塚。両塚とも現存しておらず、「東海道一里塚跡」の碑がその場所を示すのみ。

尾崎一里塚跡付近に鎮座する熊野神社。鎌倉街道が北西約3km地点の不乗森神社(安城市里町森)から証文山の東を通り熊野神社に達していたと伝わり、ここで北西方向から南へ曲がっていたので境内の森を”踏分の森”と呼ぶ。熊野神社から先の鎌倉街道は南東方向の西別所町・山崎町・岡崎市新堀町方面へ通じたいた。

熊野神社境内西側、鎌倉街道と伝わる小路。

熊野神社東側の旧東海道筋は旧尾崎村の町家が並んだ。

尾崎町の松並木。

松並木が途切れたところで国道1号に合流。

安城市から岡崎市へ。宇頭町交差点先の国道1号沿いは旧宇頭村の町家が並んでいたが、現在は国道1号が旧道を貫き、往時の面影は見られない。

宇頭北町の国道1号沿いにある和志王山薬王寺。奈良時代の創建と伝わり、薬師瑠璃光如来を本尊とする。寺伝によれば、本尊は豊阿弥長者が念持仏としていた尊像で、後に行基を開祖としてこの尊像を納め薬王寺が創建されたと云う。戦国時代の天文18年(1549年)織田信長の父信秀と、今川・松平家の間で安祥城を巡って合戦があり、この時に薬王寺は焼失、長者の子孫も絶えた。江戸時代初期に豊阿弥長者らの墓をこの地に移そうとした際、土中より首に銭を掛けた尊像を掘り出し、薬王寺が再興されたと伝わる。

国道1号を挟んで薬王寺の向かいに聖善寺を見る。慶長4年(1597年)作の木造孝養太子像と樹齢400年とされる枝垂桜があり、共に岡崎市指定文化財。枝垂桜は見頃を迎えていたのだろうが、国道を渡ることができず花見を諦めることに。国道に分断された薬王寺と聖善寺、近いようで遠いのだ。

鹿乗川を渡って。川名の由来は足利尊氏が矢作川の増水で立ち往生していたところ、そこに現れた三頭の鹿の導きによって渡河できたという故事によるのが通説らしい。この”三鹿の渡し”の故事は、桶狭間合戦で織田信長により今川義元が討たれた後、大高城から岡崎城へ撤退する徳川家康が増水した矢作川に阻まれ、三頭の鹿が現れて家康を浅瀬に導き渡河させたとの伝説もある。

鹿乗橋東交差点。現在は国道1号と化すが、昔は松並木の東海道だった。

国道1号沿いの暮戸バス停。かつて暮戸村の町家が東海道筋に並んでいたが、西隣の宇頭村と同様に旧東海道を国道1号が貫いたため、往時の面影は見られない。

国道1号沿いにある暮戸教会。ここは江戸時代後期に西三河における真宗大谷派の拠点、旧暮戸会所である。明治4年(1871年)廃仏毀釈に反対する真宗大谷派の石川台嶺を中心にする三河護法会は、廃仏希釈に同意を示した二ヶ寺の糾弾と菊間藩への談判を目的に暮戸会所で決起して大浜へ向かう。談判は決着を見ず、苛立った僧侶や門徒は暴徒化し、菊間藩役人の藤岡薫を殺害、翌日に騒動に加わった僧や門徒は捕えられ、後に裁判を経て台嶺と実行犯とされる榊原喜代七が死刑となった。この事件を大浜騒動(菊間藩事件)と呼ぶ。

暮戸神社。由緒書が無く祭神や由緒が不明。

矢作町へ入り矢作町猫田交差点付近で国道1号の喧騒を離れる。旧矢作村は宝暦年間(1751年~63年)に東矢作村と西矢作村に分かれたといい、明治11年(1878年)合併して矢作村に改められた。

矢作町四区の氏神様、竊樹(ひそこ)社。祭神は加茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)と御気津神(みけつかみ)。旧西矢作村の地に鎮座する。江戸期に上加茂大明神、明治になって加茂社に改め、大正期に竊樹社の祭神御気津神を合祀し現社名に改められた。

風格ある店構えの高岡屋呉服店。矢作町で古くから呉服商を営んでいるのだろう。

誓願寺十王堂。寿永3年(1184年)矢作の里に住む兼高長者の娘、浄瑠璃姫を弔うために再建されたと伝わる。源義経が藤原秀衡を頼り奥州へ向かう途次、兼高長者の屋敷に宿をとり、義経と浄瑠璃姫は出会い恋に落ちる。姫に名笛「薄墨」を形見に授け義経は奥州へと帰らぬ旅立ちに。姫は恋慕のあまり悲嘆にくれ、ついに菅生川(乙川)へ身を投じてしまう。十王堂には名笛「薄墨」と姫の鏡を安置する。

旧東海道の南側を通る現在の東海道(国道1号)。さすがの交通量。

旧東矢作村に鎮座する弥五騰(やごと)社。矢作町三区の氏神様。正平元年(1346年)、堀田弥五郎正泰が武内大臣・平定経を祀り左太彦宮を建立したことに始まり、願主の名から弥五郎殿と通称された。明治になって地内の八王子社と諏訪社を合祀し、現社名に改められた。

矢作町にある老舗和菓子店の近江屋本舗。店の明かりが暗がりの旧東海道を照らす。明治44年(1911年)創業。閉店時間の19時を過ぎていたため立ち寄れず。

旧東海道の突き当り、矢作川右岸にある勝蓮寺。真宗大谷派。所蔵する古文書には宗祖親鸞の来訪が記されているという。徳川家康の嫡男、信康と深く関係し、信康唯一とされる肖像画を所蔵する。信康は義父織田信長より武田家内通の嫌疑をかけられ、家康の命により自刃。21歳という若さだった。

勝蓮寺門前にあったとされる矢作一里塚跡。江戸日本橋から82里目(約322km)、京三条大橋からは36番目(実測で約182km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となる一里塚。旧東海道は矢作川に突き当たって鉤の手に下流方向へ曲げられており、この曲り角辺りに一里塚があったと推測されるが、跡地を示すものが無いため場所が特定できない。
猿渡川橋を渡って知立市から安城市へ。かつての東海道は猿渡川から松並木の街道を進んで今村の町家を通り抜け、立場が置かれた大浜茶屋村・宇頭茶屋村を経て尾崎村、宇頭村、暮戸村の町家を過ぎれば、矢作川西岸に位置する矢作村に辿り着く。矢作川に架かる矢作(矢矧)橋を渡れば岡崎城下である。現在、猿渡川から矢作川にかけての旧東海道は所々に松並木が残っていたり近年に植樹されたりして、往時の様子を感じながら歩けて楽しい。そんな中に特筆すべきは旧大浜茶屋村の永安寺境内に立つ雲竜の松。樹齢300年超えとされる雲竜の松は、力強い幹を周囲に伸ばす見事な枝ぶりの松で、私は1本の松を見てこれほどの感動を覚えたことはない。愛知県の天然記念物に指定されているが、国指定でもよいのではないかと思ったほど。近くに訪れた際は是非とも見て触れて、その生命力を感じてほしい。

猿渡川橋から旧東海道を東へ。松の下に咲くタンポポの小さな黄色が春の気分へいざなう。

今本町の旧東海道筋は所々に松並木を残す。

片側だけの松並木だが往時の東海道が感じさせる。

淺賀井(製)本社工場前の松並木が今本町の松並木東端。この先で松並木が途切れ旧今村の町家が並んだ。

今本町8丁目交差点付近の旧東海道。今村は江戸時代に池鯉鮒宿の定助郷村だった。

里町4丁目西交差点から旧東海道筋南側だけに松並木が現れる。これは北側沿いに野池村の町家が並んだ名残。

青麻神社と地蔵堂。

青麻神社の鳥居左隣に力士像。これは江戸末期から明治初期にかけて活躍した江戸力士、五代目・清見潟又市の石像。天保9年(1838年)三河国碧海郡前浜新田(現 碧南市前浜町)に生まれ本名を榊原幸吉、20歳で江戸相撲に入門し47歳まで現役を続けた。最高位は前頭筆頭、立ち合い時に相撲場外にまで届くほどの奇声を発する名物力士だった。

東栄町野池を行く旧東海道。

旧東海道松並木にて。薬剤を注射した記録紙が松を保護する人々の努力を物語ろう。大変なことだろうが、これからも松並木を育て守ってほしいと願うばかりだ。

東栄町の松並木。写真右手前の松は斜めに生えているため、幹に大型車が接触した形跡が。接触部分に虎柄の防護シートが巻かれている。

浜屋町に鎮座する日吉神社。

旧大浜茶屋村の京方端にあたる明治川神社交差点。ここから明治川神社の参道が延びている。

明治川神社交差点に立つ明治用水碑と明治川神社の鳥居。開渠と通水百年を記念する石碑2基が立つ。

明治川神社参道。

明治川神社神池と石橋。明治川神社は明治18年(1885年)建立。明治用水建設の功労者、都築弥厚、伊豫田与八郎、岡本兵松を祭神に祀る。境内に明治用水から水を引く神池があり、ここに架かる石橋の明治川橋は昭和2年(1927年)の改築。

明治川神社を参拝し参道を戻って。

明治川神社付近の明治用水。水路が暗渠化し桜並木の遊歩道が整備される。

浜屋バス停付近の旧東海道。かつて大浜茶屋村の町家が並んだ場所である。池鯉鮒宿と岡崎宿の中間に位置する大浜茶屋村は立場が置かれ、天保14年(1843年)には炒豆茶屋7軒、作間茶屋(農閑期に営む茶屋)6軒をはじめ、荒物屋、油屋、居酒屋等の店があった。蕎麦切りが名物。東隣の宇頭茶屋村との境で大浜湊(現 碧南市浜寺町)へ通じる大浜道、挙母・足助に通じる挙母道が分岐し、三河湾から遠く信州方面へ塩を運ぶために使われた。

旧大浜茶屋村の中心にある永安寺。

永安寺は大浜茶屋村の庄屋、柴田助太夫の霊を祀る。柴田助太夫は延宝5年(1677年)助郷役の免除を願い出て、領主の怒りに触れ刑死したと伝わり、この事件があったためか後に助郷役は一貫して免除された。その遺徳を称えて村民が草庵を結んだことに永安寺のはじまりがあり、寺地は柴田助太夫の屋敷跡とも伝わる。

永安寺境内で地を這うように幹を延ばす雲竜の松。

池鯉鮒宿と岡崎宿間は松並木や来迎寺一里塚等、これはと思う見所が多い中、この雲竜の松は度肝を抜かれる程の素晴らしい生えっぷり。これほどの松はそうそうお目にかかれない。

雲竜の松は柴田助太夫の屋敷にあったものなのか、永安寺建立時の植樹なのか不明だが、樹齢300年程と推定されている。幹が横に延びているため多くの支柱が立ち、管理するのも相当大変だろう。現在永安寺は無住の寺となっており、近隣の方がこの松を管理しているようだ。敬意を払いたい。

浜屋町(旧大浜茶屋村)の東隣、宇頭茶屋町へ。東海道筋に多くの茶屋があった宇頭茶屋は、江戸期を通して大浜茶屋とは隣接していながら藩領が違い、はじめ岡崎藩領に属し、宝暦13年(1763年)から幕府直轄、明和7年(1770年)に再び岡崎藩領に戻った。安政7年(1860年)には大浜茶屋と宇頭茶屋の間で茶屋営業をめぐり争論が起こっている。

宇頭茶屋町に鎮座する内外神明社。

宇頭茶屋町の法喜山妙教寺。法華宗陣門流.。

旧東海道と愛知県道76号が交差する宇頭茶屋交差点。この辺りは旧宇頭茶屋村と旧尾崎村の間に位置し、かつては松並木の街道だった。

宇頭茶屋交差点にある小堂。ピンクの桜と小堂、絵になります。

旧尾崎村の京方外れにある尾崎一里塚跡。江戸日本橋から83里目(約326km)、京三条大橋からは35番目(実測で約178km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となる一里塚。両塚とも現存しておらず、「東海道一里塚跡」の碑がその場所を示すのみ。

尾崎一里塚跡付近に鎮座する熊野神社。鎌倉街道が北西約3km地点の不乗森神社(安城市里町森)から証文山の東を通り熊野神社に達していたと伝わり、ここで北西方向から南へ曲がっていたので境内の森を”踏分の森”と呼ぶ。熊野神社から先の鎌倉街道は南東方向の西別所町・山崎町・岡崎市新堀町方面へ通じたいた。

熊野神社境内西側、鎌倉街道と伝わる小路。

熊野神社東側の旧東海道筋は旧尾崎村の町家が並んだ。

尾崎町の松並木。

松並木が途切れたところで国道1号に合流。

安城市から岡崎市へ。宇頭町交差点先の国道1号沿いは旧宇頭村の町家が並んでいたが、現在は国道1号が旧道を貫き、往時の面影は見られない。

宇頭北町の国道1号沿いにある和志王山薬王寺。奈良時代の創建と伝わり、薬師瑠璃光如来を本尊とする。寺伝によれば、本尊は豊阿弥長者が念持仏としていた尊像で、後に行基を開祖としてこの尊像を納め薬王寺が創建されたと云う。戦国時代の天文18年(1549年)織田信長の父信秀と、今川・松平家の間で安祥城を巡って合戦があり、この時に薬王寺は焼失、長者の子孫も絶えた。江戸時代初期に豊阿弥長者らの墓をこの地に移そうとした際、土中より首に銭を掛けた尊像を掘り出し、薬王寺が再興されたと伝わる。

国道1号を挟んで薬王寺の向かいに聖善寺を見る。慶長4年(1597年)作の木造孝養太子像と樹齢400年とされる枝垂桜があり、共に岡崎市指定文化財。枝垂桜は見頃を迎えていたのだろうが、国道を渡ることができず花見を諦めることに。国道に分断された薬王寺と聖善寺、近いようで遠いのだ。

鹿乗川を渡って。川名の由来は足利尊氏が矢作川の増水で立ち往生していたところ、そこに現れた三頭の鹿の導きによって渡河できたという故事によるのが通説らしい。この”三鹿の渡し”の故事は、桶狭間合戦で織田信長により今川義元が討たれた後、大高城から岡崎城へ撤退する徳川家康が増水した矢作川に阻まれ、三頭の鹿が現れて家康を浅瀬に導き渡河させたとの伝説もある。

鹿乗橋東交差点。現在は国道1号と化すが、昔は松並木の東海道だった。

国道1号沿いの暮戸バス停。かつて暮戸村の町家が東海道筋に並んでいたが、西隣の宇頭村と同様に旧東海道を国道1号が貫いたため、往時の面影は見られない。

国道1号沿いにある暮戸教会。ここは江戸時代後期に西三河における真宗大谷派の拠点、旧暮戸会所である。明治4年(1871年)廃仏毀釈に反対する真宗大谷派の石川台嶺を中心にする三河護法会は、廃仏希釈に同意を示した二ヶ寺の糾弾と菊間藩への談判を目的に暮戸会所で決起して大浜へ向かう。談判は決着を見ず、苛立った僧侶や門徒は暴徒化し、菊間藩役人の藤岡薫を殺害、翌日に騒動に加わった僧や門徒は捕えられ、後に裁判を経て台嶺と実行犯とされる榊原喜代七が死刑となった。この事件を大浜騒動(菊間藩事件)と呼ぶ。

暮戸神社。由緒書が無く祭神や由緒が不明。

矢作町へ入り矢作町猫田交差点付近で国道1号の喧騒を離れる。旧矢作村は宝暦年間(1751年~63年)に東矢作村と西矢作村に分かれたといい、明治11年(1878年)合併して矢作村に改められた。

矢作町四区の氏神様、竊樹(ひそこ)社。祭神は加茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)と御気津神(みけつかみ)。旧西矢作村の地に鎮座する。江戸期に上加茂大明神、明治になって加茂社に改め、大正期に竊樹社の祭神御気津神を合祀し現社名に改められた。

風格ある店構えの高岡屋呉服店。矢作町で古くから呉服商を営んでいるのだろう。

誓願寺十王堂。寿永3年(1184年)矢作の里に住む兼高長者の娘、浄瑠璃姫を弔うために再建されたと伝わる。源義経が藤原秀衡を頼り奥州へ向かう途次、兼高長者の屋敷に宿をとり、義経と浄瑠璃姫は出会い恋に落ちる。姫に名笛「薄墨」を形見に授け義経は奥州へと帰らぬ旅立ちに。姫は恋慕のあまり悲嘆にくれ、ついに菅生川(乙川)へ身を投じてしまう。十王堂には名笛「薄墨」と姫の鏡を安置する。

旧東海道の南側を通る現在の東海道(国道1号)。さすがの交通量。

旧東矢作村に鎮座する弥五騰(やごと)社。矢作町三区の氏神様。正平元年(1346年)、堀田弥五郎正泰が武内大臣・平定経を祀り左太彦宮を建立したことに始まり、願主の名から弥五郎殿と通称された。明治になって地内の八王子社と諏訪社を合祀し、現社名に改められた。

矢作町にある老舗和菓子店の近江屋本舗。店の明かりが暗がりの旧東海道を照らす。明治44年(1911年)創業。閉店時間の19時を過ぎていたため立ち寄れず。

旧東海道の突き当り、矢作川右岸にある勝蓮寺。真宗大谷派。所蔵する古文書には宗祖親鸞の来訪が記されているという。徳川家康の嫡男、信康と深く関係し、信康唯一とされる肖像画を所蔵する。信康は義父織田信長より武田家内通の嫌疑をかけられ、家康の命により自刃。21歳という若さだった。

勝蓮寺門前にあったとされる矢作一里塚跡。江戸日本橋から82里目(約322km)、京三条大橋からは36番目(実測で約182km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となる一里塚。旧東海道は矢作川に突き当たって鉤の手に下流方向へ曲げられており、この曲り角辺りに一里塚があったと推測されるが、跡地を示すものが無いため場所が特定できない。

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