長沢
【2015年7月19日(日)旧東海道 藤川宿→赤坂宿】
旧東海道を本宿から長沢へ。江戸時代に長沢村(現 豊川市長沢町)は東隣りに位置する赤坂宿の助郷村で、綿作が盛んに行われていたという。旧東海道は両側に山が迫る狭隘地を音羽川に沿って通され、元禄16年(1703年)の東海道分間絵図を見ると、一里塚を設ける松並木を挟んで東西に2つの街村を成していたことがわかる。戦国期には東西の三河を繋ぐ戦略上の要地であり、ここを見据えるが如く長沢松平家の居城長沢城や岩略寺城が築かれていたが、泰平の江戸の世になると、不要になった岩略寺城跡に隣接して将軍休泊用の長沢御殿が築かれた。現在はこの狭隘地に東名高速や国道1号、名鉄線が並進する現代交通の密集地、そんな状況下でも旧東海道は往時の道筋をよく残している。

国道1号から分かれる長沢の旧東海道入口。トラックや車の往来が激しい国道横に旧街道の道筋を残す。

ここで千束川を渡る。架橋されている橋の名は千両橋、その名の由来は架橋費用が千両だったと言いたいところだが、真実は不明。

長沢町小佐町を行く旧東海道。

唯心橋で再び千束川を渡河。

唯心橋東詰から立信寺参道が延びる。参道入口の両側には石仏を安置する小堂と、「当所安全」を刻む安政6年(1859年)建立の常夜燈が置かれる。

立信寺参道。門前で国道1号に分断されている。

長沢の観音堂跡。入口に観世音菩薩碑、その奥に石仏を祀る。

観音堂跡には雑草が茂る。

長沢町金山・大榎の旧東海道。

曲りくねる道と家の佇まいがいかにも旧街道らしい。

豊川市コミュニティバス山口バス停付近。この辺りに”ハシカ”という珍しいカタカナ地名があり、その由来が気になるところ。調べてみたがわからない。

入母屋造りの重厚な屋根を持つ民家。古民家らしい佇まい。

長沢町上市を行く旧東海道。

上市の旧街道沿いにある近藤製材所。

巓(いただき)神社参道入口。寛政10年(1798年)建立の秋葉山常夜燈が残る。参道は北側山中の巓神社へ続いていたはずだが、現在は国道1号、名鉄線、東名高速に分断され参詣者を阻む。

長沢町上市で旧東海道と音羽川が接する。

御城山橋北詰の旧東海道。沿道に近藤酒店がある。

上市の御城山橋から岩略寺城跡へアクセスする道。長沢小学校から音羽川対岸、長沢の地を見下ろす山頂一帯に岩略寺城が築かれていた。城跡の山を御城山と呼ぶ。岩略寺城は戦国期の縄張りを残す山城で、曲輪をはじめ土塁や堀、井戸等、良好な状態で残されているらしい。

音羽川と旧東海道(写真対岸)。

長沢町下市を行く旧東海道。

浄土真宗本願寺派、古谷山誓林寺。応仁年間(1467年~1469年)に山中郷よりこの地に移り、蓮如上人より寺号と山号(乙葉山、後に古谷山へ改称)を賜ったと伝わる。現本堂は文政7年(1824年)建立。

児子社神社参道入口付近の旧東海道。

児子神社へ延びる参道。入口に「村社兒子神社」と刻む標石が立つ。やはり巓(いただき)神社と同様、参道は国道1号、名鉄線、東名高速に分断されている。

長沢小学校の児童による作品。微笑ましい壁画です。

長沢小学校の地は中世の長沢城跡。音羽川の対岸、御城山の山頂一帯には岩略寺城が築かれており、狭隘の平地にあった長沢城は平時に、山城の岩略寺城は有事に機能したのだろう。この地が戦略上いかに重要視されていたことがわかる。泰平の江戸の世となった寛永11年(1634年)、三代将軍家光上洛の際、長沢城跡に隣接して長沢御殿が設けられ、休憩所として使われたたという。

長沢小学校前、音羽川に架かる御殿橋と御城山。

御殿橋より長沢御殿跡の長沢小学校を望む。

音羽川に架かる土橋の北詰、「一里塚跡」の標柱が長沢一里塚跡を示す。江戸日本橋から77里目(約302km)、京三条大橋からは41番目(実測で約202km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)の一里塚。両塚とも現存せず。

愛知県道73号の長沢橋下を潜り抜け八王子橋で音羽川を渡河。八王子橋東詰には一里山庚申道道標が残る。

一里山庚申道道標。碑面に「一里山庚申道 是ヨ(以下土中に埋もれ判読不能)」と刻み、庚申講信仰の道を示していると思われるが、どの道がその行く先を示しているのかがわからない。

旧東海道から延びる八王子神社参道。

八王子神社参道の苔生す石段。

八王子神社の石段にて。頭隠して尻隠さずとは、正にこのこと…。

八王子神社社殿。創建年代不明、応永11年(1403年)造営の棟札が残るという。永禄10年(1567年)音羽川付近(現 豊川市長沢町八王子)より現在地に遷座したと伝わり、明治12年(1879年)村社列格、八王子神社に改称した。

八王子神社参道入口から旧東海道を江戸方に進んで300m足らず、栄善寺の参道入口がある。昭和6年(1931年)建立の「大日如来 弘法大師御自作」と刻む標柱が立つ。

栄善寺の参道石段。

文永9年(1272年)創建と伝わる大永山栄善寺。弘法大師の自作と伝わる大日如来像を安置する。

長沢町の江戸方端、向谷を行く旧東海道。

赤坂宿の手前、旧東海道沿いにある「開運毘沙門天王尊」と刻む標柱。ここを東に過ぎれば間もなく赤坂宿だ。
旧東海道を本宿から長沢へ。江戸時代に長沢村(現 豊川市長沢町)は東隣りに位置する赤坂宿の助郷村で、綿作が盛んに行われていたという。旧東海道は両側に山が迫る狭隘地を音羽川に沿って通され、元禄16年(1703年)の東海道分間絵図を見ると、一里塚を設ける松並木を挟んで東西に2つの街村を成していたことがわかる。戦国期には東西の三河を繋ぐ戦略上の要地であり、ここを見据えるが如く長沢松平家の居城長沢城や岩略寺城が築かれていたが、泰平の江戸の世になると、不要になった岩略寺城跡に隣接して将軍休泊用の長沢御殿が築かれた。現在はこの狭隘地に東名高速や国道1号、名鉄線が並進する現代交通の密集地、そんな状況下でも旧東海道は往時の道筋をよく残している。

国道1号から分かれる長沢の旧東海道入口。トラックや車の往来が激しい国道横に旧街道の道筋を残す。

ここで千束川を渡る。架橋されている橋の名は千両橋、その名の由来は架橋費用が千両だったと言いたいところだが、真実は不明。

長沢町小佐町を行く旧東海道。

唯心橋で再び千束川を渡河。

唯心橋東詰から立信寺参道が延びる。参道入口の両側には石仏を安置する小堂と、「当所安全」を刻む安政6年(1859年)建立の常夜燈が置かれる。

立信寺参道。門前で国道1号に分断されている。

長沢の観音堂跡。入口に観世音菩薩碑、その奥に石仏を祀る。

観音堂跡には雑草が茂る。

長沢町金山・大榎の旧東海道。

曲りくねる道と家の佇まいがいかにも旧街道らしい。

豊川市コミュニティバス山口バス停付近。この辺りに”ハシカ”という珍しいカタカナ地名があり、その由来が気になるところ。調べてみたがわからない。

入母屋造りの重厚な屋根を持つ民家。古民家らしい佇まい。

長沢町上市を行く旧東海道。

上市の旧街道沿いにある近藤製材所。

巓(いただき)神社参道入口。寛政10年(1798年)建立の秋葉山常夜燈が残る。参道は北側山中の巓神社へ続いていたはずだが、現在は国道1号、名鉄線、東名高速に分断され参詣者を阻む。

長沢町上市で旧東海道と音羽川が接する。

御城山橋北詰の旧東海道。沿道に近藤酒店がある。

上市の御城山橋から岩略寺城跡へアクセスする道。長沢小学校から音羽川対岸、長沢の地を見下ろす山頂一帯に岩略寺城が築かれていた。城跡の山を御城山と呼ぶ。岩略寺城は戦国期の縄張りを残す山城で、曲輪をはじめ土塁や堀、井戸等、良好な状態で残されているらしい。

音羽川と旧東海道(写真対岸)。

長沢町下市を行く旧東海道。

浄土真宗本願寺派、古谷山誓林寺。応仁年間(1467年~1469年)に山中郷よりこの地に移り、蓮如上人より寺号と山号(乙葉山、後に古谷山へ改称)を賜ったと伝わる。現本堂は文政7年(1824年)建立。

児子社神社参道入口付近の旧東海道。

児子神社へ延びる参道。入口に「村社兒子神社」と刻む標石が立つ。やはり巓(いただき)神社と同様、参道は国道1号、名鉄線、東名高速に分断されている。

長沢小学校の児童による作品。微笑ましい壁画です。

長沢小学校の地は中世の長沢城跡。音羽川の対岸、御城山の山頂一帯には岩略寺城が築かれており、狭隘の平地にあった長沢城は平時に、山城の岩略寺城は有事に機能したのだろう。この地が戦略上いかに重要視されていたことがわかる。泰平の江戸の世となった寛永11年(1634年)、三代将軍家光上洛の際、長沢城跡に隣接して長沢御殿が設けられ、休憩所として使われたたという。

長沢小学校前、音羽川に架かる御殿橋と御城山。

御殿橋より長沢御殿跡の長沢小学校を望む。

音羽川に架かる土橋の北詰、「一里塚跡」の標柱が長沢一里塚跡を示す。江戸日本橋から77里目(約302km)、京三条大橋からは41番目(実測で約202km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)の一里塚。両塚とも現存せず。

愛知県道73号の長沢橋下を潜り抜け八王子橋で音羽川を渡河。八王子橋東詰には一里山庚申道道標が残る。

一里山庚申道道標。碑面に「一里山庚申道 是ヨ(以下土中に埋もれ判読不能)」と刻み、庚申講信仰の道を示していると思われるが、どの道がその行く先を示しているのかがわからない。

旧東海道から延びる八王子神社参道。

八王子神社参道の苔生す石段。

八王子神社の石段にて。頭隠して尻隠さずとは、正にこのこと…。

八王子神社社殿。創建年代不明、応永11年(1403年)造営の棟札が残るという。永禄10年(1567年)音羽川付近(現 豊川市長沢町八王子)より現在地に遷座したと伝わり、明治12年(1879年)村社列格、八王子神社に改称した。

八王子神社参道入口から旧東海道を江戸方に進んで300m足らず、栄善寺の参道入口がある。昭和6年(1931年)建立の「大日如来 弘法大師御自作」と刻む標柱が立つ。

栄善寺の参道石段。

文永9年(1272年)創建と伝わる大永山栄善寺。弘法大師の自作と伝わる大日如来像を安置する。

長沢町の江戸方端、向谷を行く旧東海道。

赤坂宿の手前、旧東海道沿いにある「開運毘沙門天王尊」と刻む標柱。ここを東に過ぎれば間もなく赤坂宿だ。

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