御油宿
【旧東海道歩き 第15日目】御油駅→御油宿→吉田宿→豊橋駅

東海道五十三次之内御油 旅人留女
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「御油宿」より引用
【2015年9月22日(火)旧東海道 御油宿】
今年は5連休となったシルバーウィークの9月22日、幸か不幸か仕事が無かったおかげで少しだけ旧東海道の歩みを進める。敬老の日と秋分の日に挟まれたこの日は通常ならば平日なのだが、祝日に挟まれた平日は休日になるという有難い法律のおかげで国民の休日になり、大型連休が出現することとなった。ちなみに来年は3連休にしかならなく、このままの祝日制度でいけば次に5連休となるのは11年後の2026年だという。しかし多くのサラリーマンにとっては中間期末の9月、なかなかカレンダー通りに休めないというのが実状だろう。日本国民は他国に比して労働時間が長く働き過ぎということは新聞・テレビでよく目や耳にするところ、日本が観光立国を推進するならば、まずは観光を楽しみ創造できる国民性が必要であり、もっとこういった大型連休を増やせないものかとつくづく思う。
江戸日本橋から東海道五十三次を35宿目、京都三条大橋から19宿目となる御油宿、西隣の赤坂宿、東隣の吉田宿と並び多くの飯盛女を抱えて賑わった宿場町である。歌川広重は「東海道五十三次之内御油 旅人留女」の題を付け、強引に客引きをする宿場の女たちを浮世絵に描き、東海道中膝栗毛では弥次郎兵衛が客引きの女を振り切り足早に宿場を通り抜ける様子を描く。天保14年(1843年)当時、御油宿の町並み長さ9町32間(約1040m)、人口1298人、家数316軒、本陣は鈴木半左衛門家・林五郎大夫家・中村谷十郎家・橘屋弥左衛門家の4軒、脇本陣なし、旅籠62軒。家数の2割を旅籠が占めるのは赤坂宿と同等で、歓楽地として繁盛したことを物語る。京方より上五井・中上町・仲町・横町・茶屋町と続く町並み、江戸方外れの欠間追分で姫街道(本坂道)が分岐する。下り(江戸方)の継立のみを行う片継の宿駅で、上り(京方)の継立は赤坂宿が担った。名物は甘酒と饅頭。

朝8時半、御油駅に降り立ち。

音羽川土手を歩いて御油橋へ。川岸には彼岸花が咲き誇る。

御油橋より音羽川上流を望む。

御油橋西詰。ここから旧東海道を京方へ向かって散策しよう。

御油橋西詰に鎮座する若宮八幡社。

音羽区掲示板に若宮八幡社祭礼の案内があり目に留まる。しかし一昨日の9月20日が祭礼日だったようで…。

御油宿旧茶屋町を行く旧東海道。

旧街道沿いの更地から、枯草にカモフラージュされた猫の熱い視線を感じ。

何だチミは!?

旧茶屋町と旧横町の境をなす鉤の手。旧東海道はここを手前から右折、かつては曲り角に高札場が設けられていた。

鉤の手の北西角には高札場跡の解説板が設置されている。

高札場跡の解説板がある対面角は旅籠戸田屋跡(写真手前)。ここを生家とする熊吉の娘が花・ベルツという人。明治時代にドイツ人医師ベルツが渡日し近代医学の普及に尽力、その妻となったのが花・ベルツで国際結婚の先駆けになった。

御油宿旧横町にある問屋場跡。解説板が立つ。

旧横町と旧仲町の境をなす鉤の手。写真左奥が旧横町、右が旧仲町、中央角は江戸末期に旅籠尾張屋があった。

御油宿旧仲町の町並み。世賜堂という本屋が広く敷地を占める。

和菓子屋の”御油本店おふく”辺りは豆腐の尾島屋・飴菓子屋の伊東屋跡。その左隣辺りが林五郎大夫家本陣跡(写真左手前)。

”御油本店おふく”の右隣にある”茶店こくや”。元は吉良屋という屋号の家があったようだが、当時も茶屋だったのだろうか。団子や五平餅が食べられる雰囲気のある茶店だが、見たところ暖簾を下ろしてしまったのかもしれない。

鈴木半左衛門家本陣跡(写真左手)。天保14年(1843年)に4軒あった本陣のうち最も格式の高い筆頭本陣だったと思われる。明治11年(1878年)ここを仮庁として宝飯郡役所が設けられた。現在その跡地は民家やイチビキ第一工場の敷地と化し往時の面影は留めていない。

イチビキ第一工場の敷地を通る旧東海道。かつては江戸末期に本陣を務めていた善十郎家をはじめ、大中小の旅籠が沿道に軒を連ねていた。

イチビキは醤油や味噌を主力に、ソースやつゆ等の調味料を製造販売するメーカー。本社は名古屋だが、関東でもお世話になっている方が多いのではないだろうか。

ごゆ観音こと、招賢山東林寺。永享年間(1429年~41年)龍月日蔵和尚により開基、永正年間(1504年~21年)堂宇が建立され現寺号に改められた。徳川家康が二度立ち寄り休息したという。

東林寺本堂。改装の最中のようだ。

角田畳店(写真左手前)。この辺りが御油宿の旧中上町と思われる。

御油宿京方端、旧上五井の町並み。家が途切れた先から松並木が続く。

御油の松並木入口。

松並木入口前、御関札立掛場の解説板が立つ。ここは参勤交代等で御油宿に宿泊する藩主名や宿泊日、目的地を木札に記して掲示した場所。関札は宿場の出入口や大名が宿泊する本陣・脇本陣に掲げられ、往来の旅人や住民等に大名の来訪を周知させた。

御関札立掛場から街道を挟んで向かいにある十王堂。

前回の旅で再訪を期した弥次喜多茶屋に。

しかし、弥次喜多茶屋は改修工事中のようで…残念。

”日本の名松百選”に選ばれる御油の松並木。昭和19年(1944年)国の天然記念物に指定された。

江戸時代の東海道を感じさせる御油の松並木。向こうから弥次喜多が歩いてきそうな気がしませんか。

御油松並木公園に設けられる松並木後継樹の植樹場。何十年か後、この幼木たちが松並木を後世に残していくことになるのだろう。立派な松に育ってほしい。

御油宿の東側を流れる音羽川。

川岸を彩る赤と緑のコントラストが美しい。

音羽川河畔にて。

音羽川河畔、新御油橋西側にある御油の松並木資料館。御油の松並木や御油宿に関する資料を展示する。私が訪問したときには見かけなかったが、留チャン(とめちゃん)というゆるキャラがいるらしい。江戸時代、旅籠へ客引きをする女を留女(とめおんな)と呼び、おろらくゆるキャラ名はこれに因んでいるのだろう。
豊川市 「御油の松並木資料館」
http://www.city.toyokawa.lg.jp/shisetsu/bunkakyoiku/goyumatsunamiki.html

音羽川土手を歩いて再び御油橋に。

御油宿を出で旧東海道を江戸へ向けて歩もう。

御油橋東詰にある楠社道道標。碑面に「従是楠社道」と刻み、現在の八面神社へ至る参道を示す。

細々と残る八面神社参道。

八面神社。文安3年(1446年)八面山法林寺(御油町古御堂)の住職により創建、猿田彦命を祭神に、南北朝時代に南朝方の武将楠木正成の三男楠木正儀以下7名の将を祀ったといい、元は楠神社とも称した。明治4年(1871年)頃まで境内にはクスノキの大木があったらしいが、乞食が根元をねぐらとして焚き火を続けたため終には枯れてしまったという。

西欠間の旧東海道筋にある吉川屋本店。古くから肥料や飼料、雑貨商を営んだ商家、現在は丸吉商店となって事業を継続している。

旧東海道から姫街道(本坂道)が分岐する欠間追分。写真左右の道が旧東海道、奥に延びる道が旧姫街道(本坂道)。浜名湖南部の今切口に設ける新居関所は女人改めが厳しく、多くの女性が関所を避けて浜名湖の北側陸路へ迂回、そのためこの迂回路を姫街道と呼んだ。姫街道は欠間追分から浜名湖北側の本坂峠を越え、浜松宿や見附宿で再び東海道に合流するルート。

欠間追分に残る秋葉山常夜燈。安永3年(1774年)建立。

東海道五十三次之内御油 旅人留女
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「御油宿」より引用
【2015年9月22日(火)旧東海道 御油宿】
今年は5連休となったシルバーウィークの9月22日、幸か不幸か仕事が無かったおかげで少しだけ旧東海道の歩みを進める。敬老の日と秋分の日に挟まれたこの日は通常ならば平日なのだが、祝日に挟まれた平日は休日になるという有難い法律のおかげで国民の休日になり、大型連休が出現することとなった。ちなみに来年は3連休にしかならなく、このままの祝日制度でいけば次に5連休となるのは11年後の2026年だという。しかし多くのサラリーマンにとっては中間期末の9月、なかなかカレンダー通りに休めないというのが実状だろう。日本国民は他国に比して労働時間が長く働き過ぎということは新聞・テレビでよく目や耳にするところ、日本が観光立国を推進するならば、まずは観光を楽しみ創造できる国民性が必要であり、もっとこういった大型連休を増やせないものかとつくづく思う。
江戸日本橋から東海道五十三次を35宿目、京都三条大橋から19宿目となる御油宿、西隣の赤坂宿、東隣の吉田宿と並び多くの飯盛女を抱えて賑わった宿場町である。歌川広重は「東海道五十三次之内御油 旅人留女」の題を付け、強引に客引きをする宿場の女たちを浮世絵に描き、東海道中膝栗毛では弥次郎兵衛が客引きの女を振り切り足早に宿場を通り抜ける様子を描く。天保14年(1843年)当時、御油宿の町並み長さ9町32間(約1040m)、人口1298人、家数316軒、本陣は鈴木半左衛門家・林五郎大夫家・中村谷十郎家・橘屋弥左衛門家の4軒、脇本陣なし、旅籠62軒。家数の2割を旅籠が占めるのは赤坂宿と同等で、歓楽地として繁盛したことを物語る。京方より上五井・中上町・仲町・横町・茶屋町と続く町並み、江戸方外れの欠間追分で姫街道(本坂道)が分岐する。下り(江戸方)の継立のみを行う片継の宿駅で、上り(京方)の継立は赤坂宿が担った。名物は甘酒と饅頭。

朝8時半、御油駅に降り立ち。

音羽川土手を歩いて御油橋へ。川岸には彼岸花が咲き誇る。

御油橋より音羽川上流を望む。

御油橋西詰。ここから旧東海道を京方へ向かって散策しよう。

御油橋西詰に鎮座する若宮八幡社。

音羽区掲示板に若宮八幡社祭礼の案内があり目に留まる。しかし一昨日の9月20日が祭礼日だったようで…。

御油宿旧茶屋町を行く旧東海道。

旧街道沿いの更地から、枯草にカモフラージュされた猫の熱い視線を感じ。

何だチミは!?

旧茶屋町と旧横町の境をなす鉤の手。旧東海道はここを手前から右折、かつては曲り角に高札場が設けられていた。

鉤の手の北西角には高札場跡の解説板が設置されている。

高札場跡の解説板がある対面角は旅籠戸田屋跡(写真手前)。ここを生家とする熊吉の娘が花・ベルツという人。明治時代にドイツ人医師ベルツが渡日し近代医学の普及に尽力、その妻となったのが花・ベルツで国際結婚の先駆けになった。

御油宿旧横町にある問屋場跡。解説板が立つ。

旧横町と旧仲町の境をなす鉤の手。写真左奥が旧横町、右が旧仲町、中央角は江戸末期に旅籠尾張屋があった。

御油宿旧仲町の町並み。世賜堂という本屋が広く敷地を占める。

和菓子屋の”御油本店おふく”辺りは豆腐の尾島屋・飴菓子屋の伊東屋跡。その左隣辺りが林五郎大夫家本陣跡(写真左手前)。

”御油本店おふく”の右隣にある”茶店こくや”。元は吉良屋という屋号の家があったようだが、当時も茶屋だったのだろうか。団子や五平餅が食べられる雰囲気のある茶店だが、見たところ暖簾を下ろしてしまったのかもしれない。

鈴木半左衛門家本陣跡(写真左手)。天保14年(1843年)に4軒あった本陣のうち最も格式の高い筆頭本陣だったと思われる。明治11年(1878年)ここを仮庁として宝飯郡役所が設けられた。現在その跡地は民家やイチビキ第一工場の敷地と化し往時の面影は留めていない。

イチビキ第一工場の敷地を通る旧東海道。かつては江戸末期に本陣を務めていた善十郎家をはじめ、大中小の旅籠が沿道に軒を連ねていた。

イチビキは醤油や味噌を主力に、ソースやつゆ等の調味料を製造販売するメーカー。本社は名古屋だが、関東でもお世話になっている方が多いのではないだろうか。

ごゆ観音こと、招賢山東林寺。永享年間(1429年~41年)龍月日蔵和尚により開基、永正年間(1504年~21年)堂宇が建立され現寺号に改められた。徳川家康が二度立ち寄り休息したという。

東林寺本堂。改装の最中のようだ。

角田畳店(写真左手前)。この辺りが御油宿の旧中上町と思われる。

御油宿京方端、旧上五井の町並み。家が途切れた先から松並木が続く。

御油の松並木入口。

松並木入口前、御関札立掛場の解説板が立つ。ここは参勤交代等で御油宿に宿泊する藩主名や宿泊日、目的地を木札に記して掲示した場所。関札は宿場の出入口や大名が宿泊する本陣・脇本陣に掲げられ、往来の旅人や住民等に大名の来訪を周知させた。

御関札立掛場から街道を挟んで向かいにある十王堂。

前回の旅で再訪を期した弥次喜多茶屋に。

しかし、弥次喜多茶屋は改修工事中のようで…残念。

”日本の名松百選”に選ばれる御油の松並木。昭和19年(1944年)国の天然記念物に指定された。

江戸時代の東海道を感じさせる御油の松並木。向こうから弥次喜多が歩いてきそうな気がしませんか。

御油松並木公園に設けられる松並木後継樹の植樹場。何十年か後、この幼木たちが松並木を後世に残していくことになるのだろう。立派な松に育ってほしい。

御油宿の東側を流れる音羽川。

川岸を彩る赤と緑のコントラストが美しい。

音羽川河畔にて。

音羽川河畔、新御油橋西側にある御油の松並木資料館。御油の松並木や御油宿に関する資料を展示する。私が訪問したときには見かけなかったが、留チャン(とめちゃん)というゆるキャラがいるらしい。江戸時代、旅籠へ客引きをする女を留女(とめおんな)と呼び、おろらくゆるキャラ名はこれに因んでいるのだろう。
豊川市 「御油の松並木資料館」
http://www.city.toyokawa.lg.jp/shisetsu/bunkakyoiku/goyumatsunamiki.html

音羽川土手を歩いて再び御油橋に。

御油宿を出で旧東海道を江戸へ向けて歩もう。

御油橋東詰にある楠社道道標。碑面に「従是楠社道」と刻み、現在の八面神社へ至る参道を示す。

細々と残る八面神社参道。

八面神社。文安3年(1446年)八面山法林寺(御油町古御堂)の住職により創建、猿田彦命を祭神に、南北朝時代に南朝方の武将楠木正成の三男楠木正儀以下7名の将を祀ったといい、元は楠神社とも称した。明治4年(1871年)頃まで境内にはクスノキの大木があったらしいが、乞食が根元をねぐらとして焚き火を続けたため終には枯れてしまったという。

西欠間の旧東海道筋にある吉川屋本店。古くから肥料や飼料、雑貨商を営んだ商家、現在は丸吉商店となって事業を継続している。

旧東海道から姫街道(本坂道)が分岐する欠間追分。写真左右の道が旧東海道、奥に延びる道が旧姫街道(本坂道)。浜名湖南部の今切口に設ける新居関所は女人改めが厳しく、多くの女性が関所を避けて浜名湖の北側陸路へ迂回、そのためこの迂回路を姫街道と呼んだ。姫街道は欠間追分から浜名湖北側の本坂峠を越え、浜松宿や見附宿で再び東海道に合流するルート。

欠間追分に残る秋葉山常夜燈。安永3年(1774年)建立。

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