吉田湊
【2015年9月22日(火)旧東海道 御油宿→吉田宿】
豊川放水路を越えて下五井から下地へ。吉田城下から豊川の対岸、豊川右岸に村域を持っていた下地村(現 豊橋市下地町)、東海道沿いに街村を形成し、京方端の四ツ屋(現 豊橋市下地町四ツ屋)には立場が設けられていた。村内と吉田城下を隔てる豊川には吉田大橋(豊川橋)が架けられ、吉田宿の京方出入口をなす。東海道名所図会によれば吉田大橋の長さ百二十間(約216m)、瀬田の唐橋や矢作橋と共に東海道三大橋に並び称され、。歌川広重は「東海道五十三次之内吉田 豊川橋」の題を付けて普請中の吉田城と吉田大橋を描く。その吉田大橋南詰、豊川河岸には伊勢湾海上交通の要衝だった吉田湊があり、奥三河から運ばれる産物の集散地として栄える一方、伊勢の江尻へ往来する舟運が出て伊勢参りの旅人で賑わった。

豊川放水路に架かる高橋を渡る。豊川放水路は水害対策のため昭和40年(1965年)に開通した人工河川。ここには江戸時代に江川支流の小河川が流れており、やはり高橋と称する小さな橋が架けられていた。現在の高橋は放水路開通時に架橋されたもので、歩道が無く車が通ると少々怖い。旧東海道歩きでここを渡る旅人も多くいるはず、車に対して注意標識を設置する等、もう少し歩行者に配慮がほしい。

豊川放水路を越えれば豊川市から豊橋市へ。

豊橋魚市場から旧東海道を挟んで向かいにある魚市場前センター。

下五井町を行く旧東海道。現在の豊川放水路と江川に挟まれた低地にあった旧下五井村は、東海道筋に町家を出し小さな街村を形成していたようだ。昔は下御油村とも称す。

江川に架かる鹿菅橋。鹿菅は弁慶が大雨で足止めを食らったという”しかすがの渡し”に因む地名で、明治22年(1889年)下五井村・清須新田・津田村・瓜郷村が合併、鹿菅村が成立した。

豊橋市横須賀町・瓜郷町を行く旧東海道。松並木の名残と思われる一本松が路傍に立つ。

旧東海道の東、江川南岸にある瓜郷遺跡。低湿地が囲む自然堤防上に弥生時代から古墳時代前期にかけてあった集落(ムラ)跡。東三河の弥生文化を示す土器や石器、骨角器、木製農具等が出土している。昭和28年(1953年)国史跡に指定。

弥生時代の竪穴式住居の遺構をもとに復元された竪穴式住居。

横須賀町の旧東海道。かつては松並木の街道だったが、現在は見る影もない。

立場だった下地町四ツ屋の家並み。

街道筋は立場を置く街村の面影を残す。

元禄16年間(1703年)創業のヤマサン。大豆・菜種の搾油業からはじまり、現在は米・大豆・油・飼料等を扱う卸売業の会社に発展、ここに本社を置く。おそらく創業地と思われる。

下地町豊麻を行く旧東海道。

下地交差点付近にある下地一里塚跡。江戸日本橋から74里目(約291km)、京三条大橋からは44番目(実測で約215km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)の一里塚。「下地一里塚跡」碑があるのみで両塚とも現存せず。

真宗高田派聖眼寺。

聖眼寺境内にある松葉塚。芭蕉没後50年忌を記念して建立されたという古碑が残り、芭蕉が当寺に立ち寄った折に詠んだ句を刻む。他に明和6年(1769年)建立の再建松葉塚碑、宝暦4年(1754年)建立の標石があり、市史跡に指定される。
松葉(ご)を焚(たい)て 手ぬくひあぶる 寒さ哉

聖眼寺の南東隣に真光寺。元々は真光坊と称し聖眼寺の塔頭(本寺の境内にある末寺院)、明治9年(1876年)専修寺直末となり寺号を真光寺に改めた。安置する木造阿弥陀如来立像は室町時代の作とされ、”災厄除の阿弥陀”として信仰を集める。

吉田大橋跡の北詰(豊橋市下地町側)辺り。

吉田大橋跡から豊川上流約70mに架かる豊橋。

豊橋より吉田大橋跡南詰(豊橋市船町側)を望む。かつて川岸に吉田湊が設けられ、江戸廻船や伊勢や尾張への通船が往来し賑わったのも今は昔。

豊橋市教育委員会設置の解説板「船町と高札場」より、「三河国吉田名蹤綜録」に描かれる吉田橋と吉田湊。江戸時代後期の吉田大橋や吉田湊の様子がよくわかる。

護岸に石畳を敷き往時を偲ぶ吉田湊跡。

吉田大橋跡南詰にある旧豊橋の親柱。明治12年(1879年)吉田大橋に代わり架橋された旧豊橋の親柱で、大正5年(1916年)鋼製トラス橋に架け替えられた際、この親柱だけはそのまま流用されたという。昭和61年(1986年)現在の豊橋が竣工、役目を終えたこの親柱と共に鋼製トラス橋の一部が往時を偲びここに残る。

大正5年(1916年)竣工の鋼製トラス橋遺構。

鋼製トラス橋遺構から鋭い眼差しを向ける猫。関係者以外立入禁止!と言わんばかり。決して怪しい者じゃありませんので…。

現在の豊橋南袂。豊橋市教育委員会設置の解説板「船町と高札場」を設置する。かつては旧吉田大橋(現 豊橋より約70m下流地点)南袂に船町の高札場が設けられていた。

豊橋南詰の一帯は吉田城下二十四町の一つ、船町。豊川舟運の物資集散地、吉田湊を擁し賑わった。船町には地子(賦課した地代)免除された船番組が組織され、吉田湊から移出する18品目の物資と通船の往来者に対して上前銭徴収権の特権が与えられていた。

吉田宿船会所。吉田の宿を考える会とあり、少々興味がそそられる。次の機会にもう1度訪ねてみよう。

船町交差点から旧東海道を京方の豊橋方面。旧東海道はここを右に曲がる。

豊橋市湊町に鎮座する湊神明社。白鳳元年(元号白鳳は通説で白雉(650年~54年)の別称)の鎮座と伝わる。戦国時代に今川義元やその嫡子氏真が神田を寄進している。

湊神明社は江戸時代には田町神明社と称す。幕末から明治期にかけて神主を務めた羽田野敬雄は国学者平田篤胤の門人で、篤胤直筆の書「カムナガラ」(神の心のままにの意)を木扁額に作り、今も拝殿左側に見ることができる。

湊神明社の東隣にある湊築島弁天社。社殿は寛政7年(1795年)の建築、豊橋市中心部にあって江戸時代から今に残す貴重な建築遺構である。

文政年間(1818年~30年)創業のきく宗。江戸時代から今に至るまで、"菜めし田楽"ひと筋に変らぬ味を守り続ける老舗料理店。吉田宿散策に訪れた際には訪ねなければなるまい。次の機会には必ずやその味を堪能しよう。
きく宗
http://kikusou.jp/

吉田宿本陣跡にある鰻料理店”丸よ”に着いたところで本日の旧東海道歩きは終い。

豊橋駅へ向かう途中、ヤマサちくわ本店で豊橋名産のちくわを購入。

ヤマサちくわ本店の次は若松園本店に。これまた豊橋名物の和菓子”ゆたかおこし”を購入。
若松園
http://wakamatsuen.net/

豐橋から東京へ向かう新幹線車内にて。豊橋名産のちくわを開封。

ちくわをつまみにビールをちびちび。至福の時です。

せっかくなので”ゆたかおこし”も。昭和天皇がご即位の折に献上されたという和菓子で、しっとりしたおこしに上品な甘さの餡がマッチ、個人的には豊橋土産におススメの一品。
【旧東海道歩き 第15日目】御油駅→御油宿→吉田宿→豊橋駅 歩行距離約18km
豊川放水路を越えて下五井から下地へ。吉田城下から豊川の対岸、豊川右岸に村域を持っていた下地村(現 豊橋市下地町)、東海道沿いに街村を形成し、京方端の四ツ屋(現 豊橋市下地町四ツ屋)には立場が設けられていた。村内と吉田城下を隔てる豊川には吉田大橋(豊川橋)が架けられ、吉田宿の京方出入口をなす。東海道名所図会によれば吉田大橋の長さ百二十間(約216m)、瀬田の唐橋や矢作橋と共に東海道三大橋に並び称され、。歌川広重は「東海道五十三次之内吉田 豊川橋」の題を付けて普請中の吉田城と吉田大橋を描く。その吉田大橋南詰、豊川河岸には伊勢湾海上交通の要衝だった吉田湊があり、奥三河から運ばれる産物の集散地として栄える一方、伊勢の江尻へ往来する舟運が出て伊勢参りの旅人で賑わった。

豊川放水路に架かる高橋を渡る。豊川放水路は水害対策のため昭和40年(1965年)に開通した人工河川。ここには江戸時代に江川支流の小河川が流れており、やはり高橋と称する小さな橋が架けられていた。現在の高橋は放水路開通時に架橋されたもので、歩道が無く車が通ると少々怖い。旧東海道歩きでここを渡る旅人も多くいるはず、車に対して注意標識を設置する等、もう少し歩行者に配慮がほしい。

豊川放水路を越えれば豊川市から豊橋市へ。

豊橋魚市場から旧東海道を挟んで向かいにある魚市場前センター。

下五井町を行く旧東海道。現在の豊川放水路と江川に挟まれた低地にあった旧下五井村は、東海道筋に町家を出し小さな街村を形成していたようだ。昔は下御油村とも称す。

江川に架かる鹿菅橋。鹿菅は弁慶が大雨で足止めを食らったという”しかすがの渡し”に因む地名で、明治22年(1889年)下五井村・清須新田・津田村・瓜郷村が合併、鹿菅村が成立した。

豊橋市横須賀町・瓜郷町を行く旧東海道。松並木の名残と思われる一本松が路傍に立つ。

旧東海道の東、江川南岸にある瓜郷遺跡。低湿地が囲む自然堤防上に弥生時代から古墳時代前期にかけてあった集落(ムラ)跡。東三河の弥生文化を示す土器や石器、骨角器、木製農具等が出土している。昭和28年(1953年)国史跡に指定。

弥生時代の竪穴式住居の遺構をもとに復元された竪穴式住居。

横須賀町の旧東海道。かつては松並木の街道だったが、現在は見る影もない。

立場だった下地町四ツ屋の家並み。

街道筋は立場を置く街村の面影を残す。

元禄16年間(1703年)創業のヤマサン。大豆・菜種の搾油業からはじまり、現在は米・大豆・油・飼料等を扱う卸売業の会社に発展、ここに本社を置く。おそらく創業地と思われる。

下地町豊麻を行く旧東海道。

下地交差点付近にある下地一里塚跡。江戸日本橋から74里目(約291km)、京三条大橋からは44番目(実測で約215km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)の一里塚。「下地一里塚跡」碑があるのみで両塚とも現存せず。

真宗高田派聖眼寺。

聖眼寺境内にある松葉塚。芭蕉没後50年忌を記念して建立されたという古碑が残り、芭蕉が当寺に立ち寄った折に詠んだ句を刻む。他に明和6年(1769年)建立の再建松葉塚碑、宝暦4年(1754年)建立の標石があり、市史跡に指定される。
松葉(ご)を焚(たい)て 手ぬくひあぶる 寒さ哉

聖眼寺の南東隣に真光寺。元々は真光坊と称し聖眼寺の塔頭(本寺の境内にある末寺院)、明治9年(1876年)専修寺直末となり寺号を真光寺に改めた。安置する木造阿弥陀如来立像は室町時代の作とされ、”災厄除の阿弥陀”として信仰を集める。

吉田大橋跡の北詰(豊橋市下地町側)辺り。

吉田大橋跡から豊川上流約70mに架かる豊橋。

豊橋より吉田大橋跡南詰(豊橋市船町側)を望む。かつて川岸に吉田湊が設けられ、江戸廻船や伊勢や尾張への通船が往来し賑わったのも今は昔。

豊橋市教育委員会設置の解説板「船町と高札場」より、「三河国吉田名蹤綜録」に描かれる吉田橋と吉田湊。江戸時代後期の吉田大橋や吉田湊の様子がよくわかる。

護岸に石畳を敷き往時を偲ぶ吉田湊跡。

吉田大橋跡南詰にある旧豊橋の親柱。明治12年(1879年)吉田大橋に代わり架橋された旧豊橋の親柱で、大正5年(1916年)鋼製トラス橋に架け替えられた際、この親柱だけはそのまま流用されたという。昭和61年(1986年)現在の豊橋が竣工、役目を終えたこの親柱と共に鋼製トラス橋の一部が往時を偲びここに残る。

大正5年(1916年)竣工の鋼製トラス橋遺構。

鋼製トラス橋遺構から鋭い眼差しを向ける猫。関係者以外立入禁止!と言わんばかり。決して怪しい者じゃありませんので…。

現在の豊橋南袂。豊橋市教育委員会設置の解説板「船町と高札場」を設置する。かつては旧吉田大橋(現 豊橋より約70m下流地点)南袂に船町の高札場が設けられていた。

豊橋南詰の一帯は吉田城下二十四町の一つ、船町。豊川舟運の物資集散地、吉田湊を擁し賑わった。船町には地子(賦課した地代)免除された船番組が組織され、吉田湊から移出する18品目の物資と通船の往来者に対して上前銭徴収権の特権が与えられていた。

吉田宿船会所。吉田の宿を考える会とあり、少々興味がそそられる。次の機会にもう1度訪ねてみよう。

船町交差点から旧東海道を京方の豊橋方面。旧東海道はここを右に曲がる。

豊橋市湊町に鎮座する湊神明社。白鳳元年(元号白鳳は通説で白雉(650年~54年)の別称)の鎮座と伝わる。戦国時代に今川義元やその嫡子氏真が神田を寄進している。

湊神明社は江戸時代には田町神明社と称す。幕末から明治期にかけて神主を務めた羽田野敬雄は国学者平田篤胤の門人で、篤胤直筆の書「カムナガラ」(神の心のままにの意)を木扁額に作り、今も拝殿左側に見ることができる。

湊神明社の東隣にある湊築島弁天社。社殿は寛政7年(1795年)の建築、豊橋市中心部にあって江戸時代から今に残す貴重な建築遺構である。

文政年間(1818年~30年)創業のきく宗。江戸時代から今に至るまで、"菜めし田楽"ひと筋に変らぬ味を守り続ける老舗料理店。吉田宿散策に訪れた際には訪ねなければなるまい。次の機会には必ずやその味を堪能しよう。
きく宗
http://kikusou.jp/

吉田宿本陣跡にある鰻料理店”丸よ”に着いたところで本日の旧東海道歩きは終い。

豊橋駅へ向かう途中、ヤマサちくわ本店で豊橋名産のちくわを購入。

ヤマサちくわ本店の次は若松園本店に。これまた豊橋名物の和菓子”ゆたかおこし”を購入。
若松園
http://wakamatsuen.net/

豐橋から東京へ向かう新幹線車内にて。豊橋名産のちくわを開封。

ちくわをつまみにビールをちびちび。至福の時です。

せっかくなので”ゆたかおこし”も。昭和天皇がご即位の折に献上されたという和菓子で、しっとりしたおこしに上品な甘さの餡がマッチ、個人的には豊橋土産におススメの一品。
【旧東海道歩き 第15日目】御油駅→御油宿→吉田宿→豊橋駅 歩行距離約18km

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