大森浜と砂山
函館市街の南東部、津軽海峡に面する住吉漁港から湯の川温泉にかけての海岸線に大森浜と通称する砂浜が続く。かつては大森浜一帯(現在の高盛町・日乃出町辺り)に砂山(海岸砂丘)が形成されており、砂が大きく盛り上がるの意から高大森(高大盛とも)と呼ばれた。石川啄木が函館に移住した明治40年(1907年)頃、初夏になると大森浜と砂山にはハマナスが咲き誇って美しい景観を見せ、啄木は好んでここを散策し数々の歌に残している。
東海の 小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
砂山の 砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠く おもひ出づる日
潮かおる 北の浜辺の 砂山の かの浜薔薇(はまなす)よ 今年も咲けるや
大正期になると貧困層の人々がこの砂山に穴を掘り小屋掛けする等して住みはじめ、後に掘っ立て小屋が建ち並ぶ貧民街を形成、サムライ部落(砂山部落とも)と呼称された。後に函館市街の拡大に伴いゴミや糞尿の処理場と化して環境が悪化、戦後には砂鉄採取のために砂山の取り崩しが本格化する。昭和31年(1956年)大森浜を横断する国道278号が開通、この工事によってサムライ部落は立ち退きを迫られ、昭和40年代に砂鉄を採り尽された砂山も完全に姿を消した。啄木が愛した大森浜と砂山はそんな奇異な運命を辿ることになるのだが、現在はどうなっているのか…。散策してみよう。

空中写真データ:国土地理院 整理番号USA-R250-50を基に作成
昭和23年(1948年)4月撮影の函館市街
宅地化した西側の砂山跡(現 高盛町辺り)に昭和10年(1935年)12月竣工の高盛小学校校舎が見え、東側半分(現 日之出町辺り)には高大森の砂山が残っていることを確認できる。大森浜の沿岸を昭和31年(1956年)開通の国道278号が通っている。

函館駅に降り立ち、まずは朝市の蟹商さんで年末恒例のタラバと毛ガニを買い求め。

函館駅から駅前通り(国道278号)を直進して大森町へ。大森浜に鎮座する大森稲荷神社。

大森稲荷神社の創祀は定かではないが弘化三年再建の棟札があり、江戸時代後期には存在していたことは確かなようだ。元はあさひ小学校(函館市大森町6−11)前の海に面してあり、明治43年(1910年)現在地へ遷座。昭和9年(1934年)函館大火で社殿が類焼し、同12年(1937年)再建された。現社殿は昭和45年(1970年)新築されたもの。

稲荷神社らしく狛狐が祭神を守る。

大森神社裏手、大森浜より函館山南東端の立待岬を望んで。

海面に夕陽が映える大森浜。

大森浜より湯の川方面を望む。

津軽海峡冬景色。彼方に下北半島がうっすらと見えている。

大森稲荷神社から漁火通を湯の川方面へ向かう。亀田川に架かる大森橋。

大森橋より函館市慰霊堂と亀田川を望む。函館市慰霊堂は昭和9年(1934年)函館大火による遭難死者の慰霊を目的に昭和13年(1938年)完成した。函館大火では市街地の3分の1が焼失、死者二千名を超す大惨事となった。意外にも死因で最も多かったのが溺死で、これは亀田川に架かる橋がすべて焼け落ち、市街から逃げ出す人々は亀田川に阻まれて大森浜の方に殺到、ここで激浪と猛火に逃げ場を失い、やむなく川や海に飛び込んで命を落としたらしい。

大森浜に流れ込む亀田川。当初の亀田川は梁川公園付近から西へ流れて函館湾に注いでいたが、明治21年(1888年)現流路が開削されて大森浜に流れ込むように。そのため函館大火当時は新川と称していた。ここは函館大火で800名以上の犠牲者を出した現場、穏やかな海と静かな川の流れに当時の悲惨な状況を想像するのは難しいが、約80年前に思いを馳せて冥福を祈りたい。

大森橋より函館市街を望む。

大森橋東詰、漁火通。大森町から宇賀浦町に。

”シーサイドホテルかもめ”裏手、大森浜にて。

大森浜の砂山、高大森跡西側に建つ高盛小学校。現校舎は函館大火の翌年、昭和10年(1935年)12月竣工、当時は大森小学校と称す。函館市復興計画の一環で建築された復興小学校の一つ、鉄筋コンクリート3階建てで今も現役である。

歴史の長さを感じさせる高盛小学校体育館。

高大森跡中心に位置する光成中学校。昭和23年(1948年)創立、当初は高盛中学校と称し翌年に新校舎が完成、その後に現校名へ改められた。昭和23年(1948年)4月撮影の空中写真を見ると、光成中学校の場所はまだ砂山の状態で、これから校舎の建設がはじまるところなのだろう。

高大森跡東側にある古清商店。

高大森跡を縦断する日ノ出広路。中央分離帯(グリーンベルト)には黒松が植えられ浜辺らしい雰囲気。

日ノ出広路が漁火通に突き当たる地点、小ぢんまりとした盛り上がりがある。砂山の名残だろうか。

漁火通沿い、大森浜にある啄木小公園。

啄木小公園に隣接してある土方・啄木浪漫館。以前に見学したことがあるが、せっかくなので再度入館。土方歳三や函館戦争に関する展示が多い。中でも刀剣類の展示は見応えあり。浪漫シアターでは啄木先生に向かい机を並べて学ぶ子供らの人形が当時の教室を再現、石川啄木の生涯を映像化して上映する。
土方・啄木浪漫館
http://www.romankan.com/

函館山を背景にして啄木小公園を写す。函館山の夜景と並び絶好の撮影スポット。これでハマナスが咲いていれば尚更だ。

凍てつく海に晩照が射す。

啄木小公園より亀田半島南端、汐首岬を望む。

浜辺より土方・啄木浪漫館を眺め。

石川啄木像と函館山。

後ろ姿に哀愁が漂う。

啄木小公園から歩いてラッキーピエロ人見店に。ラッキーピエロは函館近郊で展開する地元で人気のハンバーガーショップ。最近テレビで紹介されたらしく、会社の同僚から是非行ってみてと言われたことをきっかけに来訪。店内に入りメニューを見て面食らった。ハンバーガーだけではなくラーメンや炒飯、カレーライスにカツ丼と、他にもメニューが多彩にあり、すっかり腹を減らしていた私にとってはどれも魅力的なメニュー。店の内外装もさることながらメニューも個性的な飲食店である。
ラッキーピエロ
http://luckypierrot.jp/

ラッキーピエロで1番人気のチャイニーズチキンバーガー。半信半疑ながら注文したバーガーセットなのだが、確かにこれは美味しい!鳥の唐揚げが柔らかくてシューシーで、ハンバーガーにぴったり。

チャイニーズバーガーだけでは腹に物足りず、ハセガワストア湯の川店に立ち寄り、函館名物やきとり弁当を注文。
ハセガワストア
http://www.hasesuto.co.jp/index.html

宿泊先のホテルかもめ館で函館名物やきとり弁当を賞味。この弁当にのる焼肉、実は焼き鳥ではなく焼き豚なのだ。タレ、塩、塩だれ、うま辛からの4種から味付けを選べ、私は”たれ”を選択。函館に来れば海産物を食べたくなるところだが、このやきとり弁当はクセになる美味さでおススメできる一品。次は塩で食べてみたい。
撮影日:2015年12月30日(水)
東海の 小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
砂山の 砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠く おもひ出づる日
潮かおる 北の浜辺の 砂山の かの浜薔薇(はまなす)よ 今年も咲けるや
大正期になると貧困層の人々がこの砂山に穴を掘り小屋掛けする等して住みはじめ、後に掘っ立て小屋が建ち並ぶ貧民街を形成、サムライ部落(砂山部落とも)と呼称された。後に函館市街の拡大に伴いゴミや糞尿の処理場と化して環境が悪化、戦後には砂鉄採取のために砂山の取り崩しが本格化する。昭和31年(1956年)大森浜を横断する国道278号が開通、この工事によってサムライ部落は立ち退きを迫られ、昭和40年代に砂鉄を採り尽された砂山も完全に姿を消した。啄木が愛した大森浜と砂山はそんな奇異な運命を辿ることになるのだが、現在はどうなっているのか…。散策してみよう。

空中写真データ:国土地理院 整理番号USA-R250-50を基に作成
昭和23年(1948年)4月撮影の函館市街
宅地化した西側の砂山跡(現 高盛町辺り)に昭和10年(1935年)12月竣工の高盛小学校校舎が見え、東側半分(現 日之出町辺り)には高大森の砂山が残っていることを確認できる。大森浜の沿岸を昭和31年(1956年)開通の国道278号が通っている。

函館駅に降り立ち、まずは朝市の蟹商さんで年末恒例のタラバと毛ガニを買い求め。

函館駅から駅前通り(国道278号)を直進して大森町へ。大森浜に鎮座する大森稲荷神社。

大森稲荷神社の創祀は定かではないが弘化三年再建の棟札があり、江戸時代後期には存在していたことは確かなようだ。元はあさひ小学校(函館市大森町6−11)前の海に面してあり、明治43年(1910年)現在地へ遷座。昭和9年(1934年)函館大火で社殿が類焼し、同12年(1937年)再建された。現社殿は昭和45年(1970年)新築されたもの。

稲荷神社らしく狛狐が祭神を守る。

大森神社裏手、大森浜より函館山南東端の立待岬を望んで。

海面に夕陽が映える大森浜。

大森浜より湯の川方面を望む。

津軽海峡冬景色。彼方に下北半島がうっすらと見えている。

大森稲荷神社から漁火通を湯の川方面へ向かう。亀田川に架かる大森橋。

大森橋より函館市慰霊堂と亀田川を望む。函館市慰霊堂は昭和9年(1934年)函館大火による遭難死者の慰霊を目的に昭和13年(1938年)完成した。函館大火では市街地の3分の1が焼失、死者二千名を超す大惨事となった。意外にも死因で最も多かったのが溺死で、これは亀田川に架かる橋がすべて焼け落ち、市街から逃げ出す人々は亀田川に阻まれて大森浜の方に殺到、ここで激浪と猛火に逃げ場を失い、やむなく川や海に飛び込んで命を落としたらしい。

大森浜に流れ込む亀田川。当初の亀田川は梁川公園付近から西へ流れて函館湾に注いでいたが、明治21年(1888年)現流路が開削されて大森浜に流れ込むように。そのため函館大火当時は新川と称していた。ここは函館大火で800名以上の犠牲者を出した現場、穏やかな海と静かな川の流れに当時の悲惨な状況を想像するのは難しいが、約80年前に思いを馳せて冥福を祈りたい。

大森橋より函館市街を望む。

大森橋東詰、漁火通。大森町から宇賀浦町に。

”シーサイドホテルかもめ”裏手、大森浜にて。

大森浜の砂山、高大森跡西側に建つ高盛小学校。現校舎は函館大火の翌年、昭和10年(1935年)12月竣工、当時は大森小学校と称す。函館市復興計画の一環で建築された復興小学校の一つ、鉄筋コンクリート3階建てで今も現役である。

歴史の長さを感じさせる高盛小学校体育館。

高大森跡中心に位置する光成中学校。昭和23年(1948年)創立、当初は高盛中学校と称し翌年に新校舎が完成、その後に現校名へ改められた。昭和23年(1948年)4月撮影の空中写真を見ると、光成中学校の場所はまだ砂山の状態で、これから校舎の建設がはじまるところなのだろう。

高大森跡東側にある古清商店。

高大森跡を縦断する日ノ出広路。中央分離帯(グリーンベルト)には黒松が植えられ浜辺らしい雰囲気。

日ノ出広路が漁火通に突き当たる地点、小ぢんまりとした盛り上がりがある。砂山の名残だろうか。

漁火通沿い、大森浜にある啄木小公園。

啄木小公園に隣接してある土方・啄木浪漫館。以前に見学したことがあるが、せっかくなので再度入館。土方歳三や函館戦争に関する展示が多い。中でも刀剣類の展示は見応えあり。浪漫シアターでは啄木先生に向かい机を並べて学ぶ子供らの人形が当時の教室を再現、石川啄木の生涯を映像化して上映する。
土方・啄木浪漫館
http://www.romankan.com/

函館山を背景にして啄木小公園を写す。函館山の夜景と並び絶好の撮影スポット。これでハマナスが咲いていれば尚更だ。

凍てつく海に晩照が射す。

啄木小公園より亀田半島南端、汐首岬を望む。

浜辺より土方・啄木浪漫館を眺め。

石川啄木像と函館山。

後ろ姿に哀愁が漂う。

啄木小公園から歩いてラッキーピエロ人見店に。ラッキーピエロは函館近郊で展開する地元で人気のハンバーガーショップ。最近テレビで紹介されたらしく、会社の同僚から是非行ってみてと言われたことをきっかけに来訪。店内に入りメニューを見て面食らった。ハンバーガーだけではなくラーメンや炒飯、カレーライスにカツ丼と、他にもメニューが多彩にあり、すっかり腹を減らしていた私にとってはどれも魅力的なメニュー。店の内外装もさることながらメニューも個性的な飲食店である。
ラッキーピエロ
http://luckypierrot.jp/

ラッキーピエロで1番人気のチャイニーズチキンバーガー。半信半疑ながら注文したバーガーセットなのだが、確かにこれは美味しい!鳥の唐揚げが柔らかくてシューシーで、ハンバーガーにぴったり。

チャイニーズバーガーだけでは腹に物足りず、ハセガワストア湯の川店に立ち寄り、函館名物やきとり弁当を注文。
ハセガワストア
http://www.hasesuto.co.jp/index.html

宿泊先のホテルかもめ館で函館名物やきとり弁当を賞味。この弁当にのる焼肉、実は焼き鳥ではなく焼き豚なのだ。タレ、塩、塩だれ、うま辛からの4種から味付けを選べ、私は”たれ”を選択。函館に来れば海産物を食べたくなるところだが、このやきとり弁当はクセになる美味さでおススメできる一品。次は塩で食べてみたい。
撮影日:2015年12月30日(水)

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