潮見坂
いまははや 願い満ちぬる 潮見坂 心惹かれし 富士を眺めて
京都から旧東海道を歩いてきて初めて太平洋の大海原を見る。潮見坂だ。空気が澄んだ好天の日には坂上から富士山も眺められるという。古くから景勝地として知られ、室町幕府6代将軍足利義教は富士遊覧の旅の途次、冒頭の歌を詠んだ。戦国時代の天正10年(1582年)、甲州征伐を終えて安土へ帰る途次の織田信長を、徳川家康は潮見坂上に茶室を設けて歓待したと伝わる。江戸時代の万治年間(1658年~61年)刊行の東海道名所記は潮見坂を次のように紹介。
「潮見坂は町はつれ也 ここより富士山みゆ 又此坂にのぼれば うみのおもて まなこのまえにある故に潮見坂といふ 濱邊乃千鳥のこえかすかにきこえければ楽阿弥 潮見坂 汐のみちひ 濱千鳥 こえさたまらす 遠近に聞」
*原文中の変体仮名は平仮名に変換
明治元年(1868年)潮見坂は江戸へ行幸する明治天皇の休憩所ともなり、大正13年(1924年)坂上に「明治天皇御遺蹟地記念碑」の石柱を建てて潮見坂公園が造られたが、そんな景勝地も時代の趨勢に抗うことはできず、現在は公園跡地は白須賀中学校の敷地と化し、旧東海道の道筋と共に消失している。

白須賀宿を出た旧東海道は潮見坂に向かって直進していたが、現在は畑地と白須賀小学校・中学校の敷地と化して消失。現在は南側に迂回して新道が通されている。

旧東海道上に建つ白須賀小学校校舎。

潮見坂上の石碑群。「明治天皇御遺蹟地記念碑」をはじめ、夏目甕麿(なつめみかまろ)や加納諸平(かのうもろひら)らの顕彰碑、忠魂碑を建てる。

潮見坂上より太平洋(遠州灘)を望む。

潮見坂公園碑。大正13年(1924年)に造られた潮見坂公園だが、今は白須賀中学校の敷地に。この公園碑と明治天皇御遺蹟地記念碑等が往時を偲ぶ。

潮見坂上より京方、潮見坂公園跡の白須賀中学校を望む。旧東海道は正面の中学校敷地に消失、現道は左に迂回している。

潮見坂の下り口、旧東海道沿いにある”おんやど白須賀”。白須賀の歴史や文化を発信すると共に、旧東海道を散策する人々に交流や休憩場所を提供。施設内の展示は潮見坂や白須賀宿に関するものが多い。

”おんやど白須賀”には東海道中膝栗毛をモチーフにした模型を展示。写真は猿ヶ馬場の名物かしわ餅を売る茶屋を再現している。

こちらは潮見坂上にある袈裟切り地蔵(右から2体目)。強風に雨と、あまりの悪天候のため実物を見過ごしてしまったが、袈裟切り地蔵にはこんな伝承が。
その昔、白須賀に泊まっていた侍が潮見坂に化け物が出るとの噂を聞き、これを退治するため夜更けに潮見坂へ出かけたところ、噂の化け物に遭遇して刀を抜き一太刀、見事に退治したという。翌朝に町の人々がその現場を見に行ったところ、6体ある地蔵のうち1体が袈裟懸けに切られており、実は地蔵が化けていたとのオチ。普段は有り難いお地蔵さんも、中には人を驚かせて楽しむ茶目っ気たっぷりなのもいたわけだ。今も袈裟切り地蔵は現存しているが、触ると祟りがあるらしいのでご注意を。静かに拝んで帰りましょう。

”おんやど白須賀”より富士山方向を望む。条件が整えば写真正面の民家の間に富士山が望めるらしい。

”おんやど白須賀”の先、旧東海道は潮見坂の下りに。

潮見坂より遠州灘を望む。

潮見坂旧道。

潮見坂の途中から左に分かれる道は蔵法寺へ通じる脇道。かつてこの脇道筋に”うないの松”という大松があり、歌人の久内和光が歌を詠んでる。現在は切り株が残り、久内和光の歌碑が建てられているようだが、、袈裟切り地蔵と同じく悪天候のため見過ごす。

草木で鬱蒼とした薄暗い潮見坂を下る。

潮見坂旧道。

坂下より潮見坂を望む。

潮見坂下の町並み。潮見坂(写真奥)を下りきると旧東海道はここで折れ曲がり東進(写真右方向)。この辺りから江戸方への旧東海道筋が宝永4年(1707年)以前の白須賀宿があった場所で、元宿の地名で通称されている。

元宿地区に延びる旧東海道。

潮見観音こと蔵法寺。その昔、門前の海中から現れたと伝わる聖観音像を祀る。遠州灘を行き交う船は必ず帆を下げ海上から観音様を拝んだといい、”帆下げ観音”とも呼ぶ。

宝永4年(1707年)の津波で壊滅した元宿。宿場が坂上に移転した後に街村を復興、元白須賀と称して立場となっている。

元宿に鎮座する内宮神明神社。

元宿の町並み。

元宿一里塚跡と高札建場跡の解説板。ここら辺りでは高札場のことを”高札建場”とか、単に”建場”と呼んだらしい。白須賀の高札場は元宿のここと東長谷、加宿境宿新田に設置されていた。

元宿(白須賀)一里塚は江戸日本橋から70里目(約275km)、京三条大橋からは48番目(実測で約234km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)の一里塚。両塚とも現存せず。

元宿の江戸方(東側)端付近の旧東海道。写真は江戸方を望み、旧東海道はこの先で右折。かつての東海道は元宿の江戸方出入口付近で連続する鉤の手に曲げられていた。

元宿東外れの鉤の手。ここを新居宿方面に曲がった先で旧道は消失している。

旧道消失地点を過ぎれば新町地区の町並み。

新町の一区公民館バス停。

新町に鎮座する火鎮神社。室町期から江戸期にかけて津波や火災によって古文書が失われ由緒がわからないという。

明治元年(1868年)明治天皇が東京行幸で豊橋から新居へ向かう途次、野外の休憩地とした場所。「明治天皇御野立所阯」と刻む石碑を建てる。

明治天皇御野立所跡と旧東海道。何ゆえ、ここを明治天皇の休憩地としたか定かではないが、かつて大倉戸西外れにあたるこの辺りの街道は松並木で、並木越しに遠州灘を眺める景勝地、東海道分間絵図(元禄3年刊行)には松並木の中に”泣き松”という名松があったことを記しているが、今となっては泣き松がどこで枝を延ばしていたのかわからない。もしかすると明治天皇がここに野立てした理由は”泣き松”にあったのかもしれい。
「此松道中一の大松也 なき松と云 昔切ンといへは 人の声して なきたるよし」
東海道分間絵図より

大倉戸を行く旧東海道。

遠州灘沿岸の浜名川流域を村域とした大倉戸村(現 湖西市新居町浜名)。元禄年間(1688年~1704年)以前に橋本村より分村、旧東海道沿いに街村を形成していた。農家が多く農間に男は漁猟や草履・草鞋細工、女は木綿を織って浜網を作り生計を立てていた。

慶安4年(1651年)創建の松林山東新寺。臨済宗方広寺派。

立場加藤家跡(写真右手)。「立場跡」の石碑を建て往時を偲ぶ。大倉戸の集落東端に位置し、代々加藤家がここで立場を経営した。

大倉戸の集落を抜けると浜名旧街道の松並木に。写真奥が大倉戸村の集落。

松並木の中に藤原為家・阿仏尼の歌碑。
風わたる 浜名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣舟
前大納言為家
わがためや 浪もたかしの 浜ならん 袖の湊の 浪はやすまで
阿仏尼

浜名旧街道松並木。

松並木中程の山側には紅葉寺跡の石段が残る。
本堂の土台部分を残す紅葉寺跡。正式名は紅葉山本学寺。源頼朝が上洛するため橋本に宿泊、その時に寵愛を受けたとされる長者の娘が出家して妙相と名のり、高野山より毘沙門天立像を勧請して建立したと伝わる。永享4年(1432年)室町幕府6代将軍足利義教が富士遊覧の途次、ここで紅葉を鑑賞したことで紅葉寺と通称されるようになったと云う。白須賀元宿の蔵法寺(潮見観音)が管理する寺だったが、近年になって廃寺となり建物が撤去されたらしい。

紅葉寺跡より遠州灘を望む。現在は防風林に遮られ海を眺望できないが、往時は紅葉の山中から眼下に松並木、その彼方に白波立つ遠州灘の海浜が望めたことだろう。

紅葉寺跡門前、浜名旧街道の松並木。

松並木が終わると旧橋本村(現 湖西市新居町浜名)の家並みに。新居宿京方外れに位置し新居宿の加宿だった。

橋本山教恩寺。文明年間(1469年~86年)鎌倉公方足利持氏より寺領180石を与えられた由緒ある古寺院。天正年間(1573年~92年)に焼失、江戸時代になって3代将軍徳川家光より朱印地10石を与えらている。

橋本西交差点。旧東海道はここで国道1号に合流する。写真奥に延びる道が京方の旧東海道。

橋本西交差点付近に残る風炉の井。建久元年(1190年)源頼朝が上洛の折に橋本駅で宿泊、この時に茶の湯に用いた水がここから汲まれたと伝わる。

風炉の井を覗いてみる。深さ約2m、水は見えない。

旧東海道は橋本交差点を左折。橋本の地は古代東海道の猪鼻駅とする説が有力で、古代より交通の要衝地として開けた町だった。貞観4年(862年)浜名湖から遠州灘に流れ込む浜名川に浜名橋が架けられ、これが地名の発祥とされる。明応7年(1498年)の大地震をきっかけに、浜名湖と遠州灘を隔てる砂洲が切れてしまう。海水が浜名湖に流れ込む今切の出現である。従来の交通路は寸断されて浜名橋が消え失せ橋本駅は衰退したという。

諏訪上下神社。橋本交差点の南側、東海道に背を向けて鎮座している。現在地は往古に下諏訪社があり、諏訪山の一社を合祀して上下神社になったと考えられている。

加宿橋本村から新居宿京方出入口の棒鼻跡に向かう旧東海道。

新居宿西端にあたる棒鼻跡。たい焼き・たこ焼き屋”平太郎”という店がある。

平太郎のたい焼きを買い食い。腹を空かせ悪天候の旧街道を強行軍してきた旅人にとって、この”たい焼き”がいかに美味しかったことか。

新居宿に3軒あった本陣のうちの一つ、飯田武兵衛本陣跡。すっかり日が暮れてしまったので新居宿散策は次回に。

あと引製菓で”あと引せんべい”を購入。

新居関所大御門を潜り抜けて新居町駅へ向かう。

次回は新居関所の見学が楽しみだ。

”あと引せんべい”をつまみながら新居町駅より帰途につく。
【旧東海道歩き 第17日目】二川駅→二川宿→白須賀宿→新居宿→新居町駅 歩行距離約17km
京都から旧東海道を歩いてきて初めて太平洋の大海原を見る。潮見坂だ。空気が澄んだ好天の日には坂上から富士山も眺められるという。古くから景勝地として知られ、室町幕府6代将軍足利義教は富士遊覧の旅の途次、冒頭の歌を詠んだ。戦国時代の天正10年(1582年)、甲州征伐を終えて安土へ帰る途次の織田信長を、徳川家康は潮見坂上に茶室を設けて歓待したと伝わる。江戸時代の万治年間(1658年~61年)刊行の東海道名所記は潮見坂を次のように紹介。
「潮見坂は町はつれ也 ここより富士山みゆ 又此坂にのぼれば うみのおもて まなこのまえにある故に潮見坂といふ 濱邊乃千鳥のこえかすかにきこえければ楽阿弥 潮見坂 汐のみちひ 濱千鳥 こえさたまらす 遠近に聞」
*原文中の変体仮名は平仮名に変換
明治元年(1868年)潮見坂は江戸へ行幸する明治天皇の休憩所ともなり、大正13年(1924年)坂上に「明治天皇御遺蹟地記念碑」の石柱を建てて潮見坂公園が造られたが、そんな景勝地も時代の趨勢に抗うことはできず、現在は公園跡地は白須賀中学校の敷地と化し、旧東海道の道筋と共に消失している。

白須賀宿を出た旧東海道は潮見坂に向かって直進していたが、現在は畑地と白須賀小学校・中学校の敷地と化して消失。現在は南側に迂回して新道が通されている。

旧東海道上に建つ白須賀小学校校舎。

潮見坂上の石碑群。「明治天皇御遺蹟地記念碑」をはじめ、夏目甕麿(なつめみかまろ)や加納諸平(かのうもろひら)らの顕彰碑、忠魂碑を建てる。

潮見坂上より太平洋(遠州灘)を望む。

潮見坂公園碑。大正13年(1924年)に造られた潮見坂公園だが、今は白須賀中学校の敷地に。この公園碑と明治天皇御遺蹟地記念碑等が往時を偲ぶ。

潮見坂上より京方、潮見坂公園跡の白須賀中学校を望む。旧東海道は正面の中学校敷地に消失、現道は左に迂回している。

潮見坂の下り口、旧東海道沿いにある”おんやど白須賀”。白須賀の歴史や文化を発信すると共に、旧東海道を散策する人々に交流や休憩場所を提供。施設内の展示は潮見坂や白須賀宿に関するものが多い。

”おんやど白須賀”には東海道中膝栗毛をモチーフにした模型を展示。写真は猿ヶ馬場の名物かしわ餅を売る茶屋を再現している。

こちらは潮見坂上にある袈裟切り地蔵(右から2体目)。強風に雨と、あまりの悪天候のため実物を見過ごしてしまったが、袈裟切り地蔵にはこんな伝承が。
その昔、白須賀に泊まっていた侍が潮見坂に化け物が出るとの噂を聞き、これを退治するため夜更けに潮見坂へ出かけたところ、噂の化け物に遭遇して刀を抜き一太刀、見事に退治したという。翌朝に町の人々がその現場を見に行ったところ、6体ある地蔵のうち1体が袈裟懸けに切られており、実は地蔵が化けていたとのオチ。普段は有り難いお地蔵さんも、中には人を驚かせて楽しむ茶目っ気たっぷりなのもいたわけだ。今も袈裟切り地蔵は現存しているが、触ると祟りがあるらしいのでご注意を。静かに拝んで帰りましょう。

”おんやど白須賀”より富士山方向を望む。条件が整えば写真正面の民家の間に富士山が望めるらしい。

”おんやど白須賀”の先、旧東海道は潮見坂の下りに。

潮見坂より遠州灘を望む。

潮見坂旧道。

潮見坂の途中から左に分かれる道は蔵法寺へ通じる脇道。かつてこの脇道筋に”うないの松”という大松があり、歌人の久内和光が歌を詠んでる。現在は切り株が残り、久内和光の歌碑が建てられているようだが、、袈裟切り地蔵と同じく悪天候のため見過ごす。

草木で鬱蒼とした薄暗い潮見坂を下る。

潮見坂旧道。

坂下より潮見坂を望む。

潮見坂下の町並み。潮見坂(写真奥)を下りきると旧東海道はここで折れ曲がり東進(写真右方向)。この辺りから江戸方への旧東海道筋が宝永4年(1707年)以前の白須賀宿があった場所で、元宿の地名で通称されている。

元宿地区に延びる旧東海道。

潮見観音こと蔵法寺。その昔、門前の海中から現れたと伝わる聖観音像を祀る。遠州灘を行き交う船は必ず帆を下げ海上から観音様を拝んだといい、”帆下げ観音”とも呼ぶ。

宝永4年(1707年)の津波で壊滅した元宿。宿場が坂上に移転した後に街村を復興、元白須賀と称して立場となっている。

元宿に鎮座する内宮神明神社。

元宿の町並み。

元宿一里塚跡と高札建場跡の解説板。ここら辺りでは高札場のことを”高札建場”とか、単に”建場”と呼んだらしい。白須賀の高札場は元宿のここと東長谷、加宿境宿新田に設置されていた。

元宿(白須賀)一里塚は江戸日本橋から70里目(約275km)、京三条大橋からは48番目(実測で約234km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)の一里塚。両塚とも現存せず。

元宿の江戸方(東側)端付近の旧東海道。写真は江戸方を望み、旧東海道はこの先で右折。かつての東海道は元宿の江戸方出入口付近で連続する鉤の手に曲げられていた。

元宿東外れの鉤の手。ここを新居宿方面に曲がった先で旧道は消失している。

旧道消失地点を過ぎれば新町地区の町並み。

新町の一区公民館バス停。

新町に鎮座する火鎮神社。室町期から江戸期にかけて津波や火災によって古文書が失われ由緒がわからないという。

明治元年(1868年)明治天皇が東京行幸で豊橋から新居へ向かう途次、野外の休憩地とした場所。「明治天皇御野立所阯」と刻む石碑を建てる。

明治天皇御野立所跡と旧東海道。何ゆえ、ここを明治天皇の休憩地としたか定かではないが、かつて大倉戸西外れにあたるこの辺りの街道は松並木で、並木越しに遠州灘を眺める景勝地、東海道分間絵図(元禄3年刊行)には松並木の中に”泣き松”という名松があったことを記しているが、今となっては泣き松がどこで枝を延ばしていたのかわからない。もしかすると明治天皇がここに野立てした理由は”泣き松”にあったのかもしれい。
「此松道中一の大松也 なき松と云 昔切ンといへは 人の声して なきたるよし」
東海道分間絵図より

大倉戸を行く旧東海道。

遠州灘沿岸の浜名川流域を村域とした大倉戸村(現 湖西市新居町浜名)。元禄年間(1688年~1704年)以前に橋本村より分村、旧東海道沿いに街村を形成していた。農家が多く農間に男は漁猟や草履・草鞋細工、女は木綿を織って浜網を作り生計を立てていた。

慶安4年(1651年)創建の松林山東新寺。臨済宗方広寺派。

立場加藤家跡(写真右手)。「立場跡」の石碑を建て往時を偲ぶ。大倉戸の集落東端に位置し、代々加藤家がここで立場を経営した。

大倉戸の集落を抜けると浜名旧街道の松並木に。写真奥が大倉戸村の集落。

松並木の中に藤原為家・阿仏尼の歌碑。
風わたる 浜名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣舟
前大納言為家
わがためや 浪もたかしの 浜ならん 袖の湊の 浪はやすまで
阿仏尼

浜名旧街道松並木。

松並木中程の山側には紅葉寺跡の石段が残る。


紅葉寺跡より遠州灘を望む。現在は防風林に遮られ海を眺望できないが、往時は紅葉の山中から眼下に松並木、その彼方に白波立つ遠州灘の海浜が望めたことだろう。

紅葉寺跡門前、浜名旧街道の松並木。

松並木が終わると旧橋本村(現 湖西市新居町浜名)の家並みに。新居宿京方外れに位置し新居宿の加宿だった。

橋本山教恩寺。文明年間(1469年~86年)鎌倉公方足利持氏より寺領180石を与えられた由緒ある古寺院。天正年間(1573年~92年)に焼失、江戸時代になって3代将軍徳川家光より朱印地10石を与えらている。

橋本西交差点。旧東海道はここで国道1号に合流する。写真奥に延びる道が京方の旧東海道。

橋本西交差点付近に残る風炉の井。建久元年(1190年)源頼朝が上洛の折に橋本駅で宿泊、この時に茶の湯に用いた水がここから汲まれたと伝わる。

風炉の井を覗いてみる。深さ約2m、水は見えない。

旧東海道は橋本交差点を左折。橋本の地は古代東海道の猪鼻駅とする説が有力で、古代より交通の要衝地として開けた町だった。貞観4年(862年)浜名湖から遠州灘に流れ込む浜名川に浜名橋が架けられ、これが地名の発祥とされる。明応7年(1498年)の大地震をきっかけに、浜名湖と遠州灘を隔てる砂洲が切れてしまう。海水が浜名湖に流れ込む今切の出現である。従来の交通路は寸断されて浜名橋が消え失せ橋本駅は衰退したという。

諏訪上下神社。橋本交差点の南側、東海道に背を向けて鎮座している。現在地は往古に下諏訪社があり、諏訪山の一社を合祀して上下神社になったと考えられている。

加宿橋本村から新居宿京方出入口の棒鼻跡に向かう旧東海道。

新居宿西端にあたる棒鼻跡。たい焼き・たこ焼き屋”平太郎”という店がある。

平太郎のたい焼きを買い食い。腹を空かせ悪天候の旧街道を強行軍してきた旅人にとって、この”たい焼き”がいかに美味しかったことか。

新居宿に3軒あった本陣のうちの一つ、飯田武兵衛本陣跡。すっかり日が暮れてしまったので新居宿散策は次回に。

あと引製菓で”あと引せんべい”を購入。

新居関所大御門を潜り抜けて新居町駅へ向かう。

次回は新居関所の見学が楽しみだ。

”あと引せんべい”をつまみながら新居町駅より帰途につく。
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