新居関所
浜名湖南西岸に町家を広げた新居宿。東隣の舞阪宿との間に浜名湖が隔たり、東海道の往来は渡し船(今切の渡し)によるものだった。その新居宿側の渡船場に設けられたのが新居関所、幕府は今切関所という名を用いた。「入り鉄砲に出女」と言われた当時の関所の中でも、新居関所は特に女性の出入りを厳しく取り締まったといわれる。地元の方に聞いた話によると、江戸時代には新居関所があったため、浜名湖を挟んで東側と西側の住民での婚姻は稀だったらしい。その厳しい取り締まりを逃れようと、女性の旅人は新居関所を避けて浜名湖北側の陸路(本坂道)を通ることが多く、この脇道が”姫街道”と通称されるのはそのためである。
新居関所は江戸初期から中期にかけて度重なる高潮や津波の被害に遭って2度移転している。初めて新居関所が設置されたのは慶長5年(1600年)とされ、その場所は浜名湖西岸に突き出た半島状の先端。近くには将軍休泊用の新居御殿が設けられていた。延宝8年(1680年)と元禄12年(1699年)に暴風雨や高潮の被害を受けたことを契機に、元禄14年(1701年)関所が約650m西北の藤十郎山の地へ移転し、これに伴い新居宿の城町も移転。それから6年後の宝永4年(1707年)東海沖を震源とする宝永地震が発生、津波によって新居宿をはじめ関所が壊滅し、宿場のあった半島は2ヶ所で分断、更なる移転を余儀なくされる。翌年には現在地に関所を移転、新居宿も全町移転を完了した。この新しい新居宿と関所は明治維新まで続くことになる。当初の関所と城町跡は大元屋敷、宝永移転前の関所跡と西町・中町・城町跡は中屋敷と通称する。

新居町駅から関所へGO!

新居宿駅付近にある食堂大黒屋。浜名湖といえば、やっぱり鰻でしょ。時間が無いので食べたい気持ちを抑えて通り過ぎ…。

浜名川河口部に架かる浜名橋。室町時代中期、今切の出現以前の浜名川は、浜名湖から橋本駅(近世東海道新居宿の前身、現新居町浜名の橋本地区)の南側を通って遠州灘へ流れ込み、東海道は橋本駅から浜名川に架かる浜名橋を渡って東へ延びていた。浜名橋が初めて架橋されたのが貞観4年(862年)とされ、現在の浜名橋より約1.5km上流辺りと思われる。海と浜名湖が繋がってから浜名川の流れは逆転、その大義を失い現在は細々とした流路を残すのみ。

国道301号が通る現在の浜名橋。新居関所から舞坂宿まで、国道301号・1号のルートが今切渡船の航路を踏襲している。

新居関所の南側、味楽酒房”豊千”がある場所は芸妓置き屋の寶屋跡。明治・大正期の新居には多くの芸妓置き屋があったが、現在は小松楼の1軒だけが当時の建物を残す。

入館受付から新居関所へ入ろう。

現存する関所建物は安政2年(1855年)から5年かけて建て替えられたもの。

今切渡しの渡船場。往時の関所東側は浜名湖の湖岸だった。渡船場と水辺を復元し往時を偲ぶ。

新居関所と大御門。新居宿から東の舞坂宿へ向かう旅人は大御門を潜り抜けて関所へ入り、ここで取り調べを受けて今切渡しの渡船場から乗船した。また、今切湊へ出入りする船の取り調べもここで行われていた。

敷地内に展示する荷物石と関所の石樋。荷物石(写真左手前)は旅人が取り調べを受けている間に荷物を置いた石、面番所の西側に並んで置かれていた。石樋は関所の排水溝出口に設置されていたもので、カモの口ばしのように石垣から突き出ていたので、”鴨の嘴(くちばし)”や”鴨の口”と呼ばれた。

威厳と格式を備える新居関所。

関所建物の北東奥に設けられた書院。現在は関所建物内の見学入口となっているが、現役時代は公式な対面所として用いられたという。

関所面番所。読んで字の如く、ここで関所役人と往来する旅人が面を合わせた。関所役人の人形が据えられ往時を再現、開所時は写真左の障子襖を開けて往来の旅人を取り調べたのだろう。

関所役人はイケメン揃い。

関所面番所の表側。ここで往来の旅人は跪き、関所役人の吟味を受けたのだろう。

関所建物の北西奥に設ける足軽勝手。関所役人のうち足軽階級の人々が休憩所に使った。

足軽勝手に据える”改め女”の人形。”改め女”とは、関所を往来する女を取り調べた人のことで、衣類を脱がせ違法な品を隠し持っていないかを調べた。往時は足軽長屋の西側に女改長屋を設け、そこで関所役人の妻や母親が女改めを務めたという。女改長屋は現存していない。

関所見学後は新居関所史料館で関所の歴史について学ぼう。

新居宿江戸方出入口となる新居関所の大御門。京方へ向かう旅人はここを通り抜けて安堵し、江戸方へ向かう旅人はここで気を引き締めたことだろう。

大御門と新居関所。

関所から新居宿へ。続きは次の記事に。
撮影日:2016年4月2日(土)
新居関所は江戸初期から中期にかけて度重なる高潮や津波の被害に遭って2度移転している。初めて新居関所が設置されたのは慶長5年(1600年)とされ、その場所は浜名湖西岸に突き出た半島状の先端。近くには将軍休泊用の新居御殿が設けられていた。延宝8年(1680年)と元禄12年(1699年)に暴風雨や高潮の被害を受けたことを契機に、元禄14年(1701年)関所が約650m西北の藤十郎山の地へ移転し、これに伴い新居宿の城町も移転。それから6年後の宝永4年(1707年)東海沖を震源とする宝永地震が発生、津波によって新居宿をはじめ関所が壊滅し、宿場のあった半島は2ヶ所で分断、更なる移転を余儀なくされる。翌年には現在地に関所を移転、新居宿も全町移転を完了した。この新しい新居宿と関所は明治維新まで続くことになる。当初の関所と城町跡は大元屋敷、宝永移転前の関所跡と西町・中町・城町跡は中屋敷と通称する。

新居町駅から関所へGO!

新居宿駅付近にある食堂大黒屋。浜名湖といえば、やっぱり鰻でしょ。時間が無いので食べたい気持ちを抑えて通り過ぎ…。

浜名川河口部に架かる浜名橋。室町時代中期、今切の出現以前の浜名川は、浜名湖から橋本駅(近世東海道新居宿の前身、現新居町浜名の橋本地区)の南側を通って遠州灘へ流れ込み、東海道は橋本駅から浜名川に架かる浜名橋を渡って東へ延びていた。浜名橋が初めて架橋されたのが貞観4年(862年)とされ、現在の浜名橋より約1.5km上流辺りと思われる。海と浜名湖が繋がってから浜名川の流れは逆転、その大義を失い現在は細々とした流路を残すのみ。

国道301号が通る現在の浜名橋。新居関所から舞坂宿まで、国道301号・1号のルートが今切渡船の航路を踏襲している。

新居関所の南側、味楽酒房”豊千”がある場所は芸妓置き屋の寶屋跡。明治・大正期の新居には多くの芸妓置き屋があったが、現在は小松楼の1軒だけが当時の建物を残す。

入館受付から新居関所へ入ろう。

現存する関所建物は安政2年(1855年)から5年かけて建て替えられたもの。

今切渡しの渡船場。往時の関所東側は浜名湖の湖岸だった。渡船場と水辺を復元し往時を偲ぶ。

新居関所と大御門。新居宿から東の舞坂宿へ向かう旅人は大御門を潜り抜けて関所へ入り、ここで取り調べを受けて今切渡しの渡船場から乗船した。また、今切湊へ出入りする船の取り調べもここで行われていた。

敷地内に展示する荷物石と関所の石樋。荷物石(写真左手前)は旅人が取り調べを受けている間に荷物を置いた石、面番所の西側に並んで置かれていた。石樋は関所の排水溝出口に設置されていたもので、カモの口ばしのように石垣から突き出ていたので、”鴨の嘴(くちばし)”や”鴨の口”と呼ばれた。

威厳と格式を備える新居関所。

関所建物の北東奥に設けられた書院。現在は関所建物内の見学入口となっているが、現役時代は公式な対面所として用いられたという。

関所面番所。読んで字の如く、ここで関所役人と往来する旅人が面を合わせた。関所役人の人形が据えられ往時を再現、開所時は写真左の障子襖を開けて往来の旅人を取り調べたのだろう。

関所役人はイケメン揃い。

関所面番所の表側。ここで往来の旅人は跪き、関所役人の吟味を受けたのだろう。

関所建物の北西奥に設ける足軽勝手。関所役人のうち足軽階級の人々が休憩所に使った。

足軽勝手に据える”改め女”の人形。”改め女”とは、関所を往来する女を取り調べた人のことで、衣類を脱がせ違法な品を隠し持っていないかを調べた。往時は足軽長屋の西側に女改長屋を設け、そこで関所役人の妻や母親が女改めを務めたという。女改長屋は現存していない。

関所見学後は新居関所史料館で関所の歴史について学ぼう。

新居宿江戸方出入口となる新居関所の大御門。京方へ向かう旅人はここを通り抜けて安堵し、江戸方へ向かう旅人はここで気を引き締めたことだろう。

大御門と新居関所。

関所から新居宿へ。続きは次の記事に。
撮影日:2016年4月2日(土)

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