暴れ天竜を渡る

【2016年5月6日(金)旧東海道 浜松宿→見附宿】
浜松宿を出て旧東海道を東進する。浜松宿東木戸から天神町(現 浜松市中区天神町)、植松(現 浜松市東区植松町)、永田(現 浜松東区和田町)、橋羽(現 浜松市東区天龍川町)、薬師新田(現 浜松市東区薬新町)、安間(現 浜松市東区安間町)、萱場(現 浜松市東区中野町)、中野町(現 浜松市東区中野町)の街村を経る約6kmの道中を行けば、大河の天竜川に行く手を遮られる。諏訪湖に源を発する天竜川は、山間の伊那谷を流れて遠州灘へ注ぐ日本有数の急流河川。古くから”暴れ天竜”と呼ばれ、下流部では氾濫により度々大きな被害を受けた。

江戸時代を通して東海道の天竜川渡河は舟渡しで、上流部西岸に富田・一色の渡船場、東岸に池田の渡船場が設けられ、”池田の渡し”と呼ぶ渡船が運行、池田村(現 磐田市池田)と船越一色村(現 浜松市中区船越町)が独占権を与えられ渡船役を務めた。渡し場辺りの天竜川は通常時に中州を挟ん小天竜・大天竜と呼ばれる二股の流れになっており、旅人は中州で船を乗り換えて対岸に渡った。また、川の増水量に応じて渡船場が変わり、東岸池田側には上中下3ヶ所の渡船場があり、平常時は下之渡船場を使用、西岸中野町側にも3ヶ所程度の渡船場が設けられていた。天竜川は流れが太い本流を大天竜、細い支流を小天竜と呼称し、度々本流が変わり時代によって呼び方も入れ替わったようだ。元禄3年(1690年)の東海道分間絵図、天保13年(1842)の東海木曽両道中懐宝図鑑を見ると、どちらも西側が”大天龍”、東側が小天龍”と表記されている。明治7年(1874年)天竜川に船橋が架橋され池田の渡しはその役目を終えた。

天竜川東岸の渡船場池田から東海道は川下に向かって南進、立場の長森(現 磐田市長森)で東へ方向を変え森下(現 磐田市森下)、宮之一色(現 磐田市宮之一色)、万能(現 磐田市下万能)の街村を経て中泉に。中泉の東海道西側は坂道になっており、坂途中にあった山伏の修行寺から名をとって大乗院坂と呼ばれ、沿道に町家が並び立場を置いた。南側一帯には戦国時代末期に徳川家専用の休泊施設として中泉御殿が築かれ、その東側一角に陣屋を設け江戸期を通して遠江全域と駿河の一部を支配した。中泉御殿は寛文10年(1670年)に廃止、中泉陣屋は明治まで存続する。




国道152号 木戸町
馬込橋東詰、国道152号の木戸町から次の見付宿へ向けて歩こう。


柳川緑道(浜名用水)と東鎧橋
木戸町の東隣、相生町の浜名用水に架かる東鎧橋。旧東海道の浜松宿京方外れ、八丁畷(鳥井縄手)にある鎧橋に対して東鎧橋と名付けられた。


柳川緑道(浜名用水)
鎧橋より北側の浜名用水は暗渠となり緑川緑道になっている。


馬込一里塚跡
江戸日本橋から65里目(約255km)、京三条大橋からは53番目(実測で約258km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)にあたる馬込一里塚跡。遺構は残っておらず、跡地に解説板を設置する。


相生橋
交差点の一角に相生橋。ここに橋が架かっているとは誰も思わない状態。


天神町交差点
天神町交差点の国道152号。かつての天神町は向宿村の枝郷で、立場を置き足袋が名産だった。現在は道が拡幅され古い建物も無く旧街道の面影は薄い。町内北端に町名の由来となった天神社が鎮座する。


浜松酒造
天神町の旧東海道沿いにある浜松酒造。明治4年(1871年)創業、代表銘柄は「出世城」。


龍梅寺
北野山龍梅寺。焼き餅を供えれば願い事を叶えてくれるという”やきもち地蔵”がある。


国道152号 天神町
ここで浜松市中区から東区へ。天神町と植松町の境。


人形の館河田
植松町の街道沿いには”人形の館河田”。


国道152号 植松町
植松町を行く国道152号。天神町と同じく国道が貫き旧街道の面影を留めていない。


蒲神明宮一の鳥居
東海道(国道152号)に面して蒲神明宮一の鳥居が立つ。平安時代末期に藤原鎌足十世の子孫、越後守静並が伊勢神宮の神託を受け、ここ蒲の地(馬込川と天竜川の間)を開拓、蒲神明宮を創建したと伝わる。以来、静並の子孫が神官となり蒲御厨(かばのみくりや)を支配し蒲氏を名のった。源範頼(頼朝の弟)は蒲御厨に生まれたといい「蒲冠者」と称する。


芳川と琵琶橋
植松町内を縦断して流れる芳川。東海道(国道152号)には琵琶橋が架かる。


子安交差点(植松原)
子安交差点。植松原の案内道標を設置している。植松から永田(現 浜松東区和田町)にかけての東海道は蒲畷(かばなわて、かんまなわて)と呼ばれる松並木の畷道だった。


子安神社
子安交差点の南東に鎮座する子安神社。源範頼が娘の無事出産を祈願し創建したとの伝説も。


六軒京本舗
蒲畷の旧東海道(静岡県道312号)。左手に六軒京本舗という紫蘇巻きの店。江戸時代末期の創業で、六軒と通称されたこの地に茶店を開き、紫蘇巻きを出したことに始まりがあるという。和を感じる赤紫蘇色の塀が美しい。


大蒲八柱神社
大蒲町の八柱神社。


大蒲八柱神社の連理木
八柱神社本殿裏にある榊(さかき)。神棚に供えられるあの枝葉が榊で、古くから神事に用いられてきた。ここの榊は2本の木の枝が癒着結合する連理木という形態になっている。


浜松アリーナ
蒲畷筋に建つ浜松アリーナ。


蒲畷の名残松
蒲畷の名残松。


和田町バス停
和田町バス停付近。かつては松並木の合間に永田(長田)村の家が散在していた。


天竜川町西交差点
永田を出て天龍川町西交差点に差し掛かる。交差点南東角に名残松。


天龍川駅交差点
天龍川駅交差点。北西角に橋羽の六所神社が鎮座。この周辺一帯は橋羽(はしわ)と呼ばれた。


六所神社
橋羽の六所神社社殿。


お宮の松跡
境内南入口、お宮の松跡。かつて鳥居前辺りに橋羽のシンボル的存在の黒松が聳えていた。目通り直径3m、根回り4.5m、樹高17mという大木の松だったが、昭和54年(1979年)台風被害により致命的な損傷を受け翌月に伐採。推定樹齢260年前後だったという。


法橋の松
お宮の松が見れずに残念と思いきや、天竜川町西交差点から南へおよそ200mの場所に樹齢約700年といわれる”法橋の松”が元気に生き延びている。こちらは目通り直径約5m、枝張は最大で約18m、樹高約14mの大古松。ここより約200m東にある妙恩寺の開基、金原法橋(きんぱらほうきょう)の庭前にあった松と伝わる。


妙恩寺本堂
応長元年(1311年)日蓮の孫弟子日像を開山とし、金原法橋を開基として創建された妙恩寺。遠州最初の法華道場という日蓮宗の古刹。かつては塔頭寺院が並ぶ大寺院の様相だったらしい。


橋羽の松並木
橋羽の東、天龍川町と薬師町の境に残る松並木。


薬師町の名残松
薬師町の名残松。バランスが悪そうながら樹勢は衰えていない。


薬師町の松並木
薬師町に残る松並木。


和田尋常高等学校入口道標
和田尋常高等小学校入口道標。和田小学校の入口、旧東海道の路傍にひっそりと残る。


薬師町の松並木
薬師町の松並木。


薬師町八柱神社
薬師町の八柱神社。安間郷(現 安間・安新・薬師・薬新・北島町)の氏神。金原明善(天竜川の治水事業に尽力し功績を残した)の父、金原久右衛門が天保15年(1844年)に奉納した燈籠が鳥居脇と参道途中にある。


国道1号跨道橋下
国道1号を潜り抜ければ薬師町から薬新町に。


旧立場薬師新田
薬新町の旧東海道。この地は立場を置いた薬師新田が旧名、現町名はその短縮形なのだろう。


安間橋と旧東海道
薬新町と安新町の境をなす安間川に架かる安間橋。写真奥方向の道が安新町の旧東海道。薬新町と同様、安新町は安間新田の短縮形だと思われる。


安間一里塚跡
江戸日本橋から64里目(約251km)、京三条大橋からは54番目(実測で約262km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)にあたる安間一里塚跡。両塚とも現存せず。


本坂通(姫街道)安間起点
安新町にある本坂通(姫街道)安間起点。写真左右方向が旧東海道で、奥方向は旧本坂通。


金原明善生家
安間村(現 浜松市東区安間町)の名主を務めた金原家。天竜川の治水事業に尽力し、多大な功績を残した金原明善はここに生まれた。現在は金原明善生家として一般公開している。見学したかったのだが時間が16時過ぎ、本日の目的地見付宿はまだまだ遠く、泣く泣く外観を見ただけで通り過ぎることに。後日、機会を設けて再訪しよう。


金原明善記念館
金原明善生家の向かいには金原明善記念館。生家が展示施設として改修されるに伴い、こちらは閉めてしまったようだ。


萱場の東海道松並木跡
萱場(現 浜松市東区中野町)の松並木跡。


松林禅寺
臨済宗方広寺派の名刹、松林禅寺。境内の薬師堂は3代将軍徳川家光の命により建立されたものと伝わる。


松林禅寺薬師堂前にある庚申塔
松林禅寺薬師堂前にある庚申塔。


萱場高札場跡
松林禅寺の向かいは萱場村の高札場跡。


軽便鉄道軌道跡
軽便鉄道(中ノ町線)軌道跡。写真右手前から左奥にかけ横断歩道辺りを斜めに軽便鉄道が横切っていた。軽便鉄道(中ノ町線)は浜松から中野町までの11駅間を走っていた鉄道で、明治42年(1909年)開業、昭和12年(1937年)に廃止。中ノ町地区自治会館付近が終点の中ノ町駅があった。


旧東海道 中野町
中野町の旧東海道。中野町は江戸時代に中野町村や中ノ町村と称し、東海道の真ん中に位置することに地名の由来があるという。天竜川渡船を控え間の宿として賑わった。


東橋跡
中野町繁華街への入口をなした東橋跡。江戸時代に中野町村で最も東にあった橋で、ここより天竜川にかけての東海道筋には旅籠や料理屋等が軒を連ね町屋を形成、天竜川渡船の旅人相手に繁盛した。


旧東海道 中野町
明治時代後期から中野町は天竜川水運による木材の集積地に。堤防沿いに19軒もの製材所が建ち、旧東海道筋には旅館や芸者置屋、小料理、洋食屋、玉突き、カフェー等の店が軒を連ねた。現在は明治10年(1877年)創業のうなぎ・割烹料理”中川屋本店”が営業を続けている。


伊豆石の蔵
縞模様の入った伊豆石が使われ特徴ある石蔵。明治時代に廻船問屋で使われたもの。


天竜川橋紀功碑
中野町の旧道路傍にある天竜川橋紀功碑。明治27年(1894年)建立。明治元年(1868年)明治天皇行幸の折、天竜川を安全に渡河させるために舟橋を架ける等、天竜川交通に貢献した浅野茂平の功績を称える碑。


餃子の店かめ
旧東海道の突き当りに六所神社。その向こうは天竜川となる。ここに”餃子の店かめ”があり、生餃子をテイクアウトする餃子店らしい。冷凍の生餃子は歩きの旅人にとって少々荷が重い、食べてみたいけど…。


六所神社
六所神社は天竜橋跡西袂に鎮座している。


天竜橋跡
明治11年(1878年)完成の天竜橋跡。昭和8年(1933年)に現在の天竜川橋が架橋されるまで存続。646間(1175m)もの橋長を誇る名物木橋だった。


天竜橋の古写真
”中野町を考える会”設置の解説板より。在りし日の天竜橋。左奥にトラス橋の天竜川橋が見え、撤去直前に撮られた写真だろう。


天竜橋跡にて
天竜橋跡にて。アオサギが獲物を探す。


横町通り
六所神社に突き当たって左折すれば中野町の旧横町、現在は横町通りと呼ぶ。大正期から昭和初期にかけて天竜川水運が盛んになり、横町には船頭や筏師相手の船宿や小料理屋等が軒を連ね賑わった。江戸時代の東海道は横町を通って天竜川右岸を北上、現在の天竜川緑地辺りに渡船場があった。


横町通り
北側より横町通りを望む。左側に天竜川の堤防が迫る。
新新天竜川橋を渡って対岸へ。

新天竜川橋
江戸時代には難所だった暴れ天竜も今は川面を眼下に楽々渡河できる。天竜川橋(昭和8年完成)と新天竜川橋(昭和40年完成)には歩道が無く、新新天竜川橋(平成18年完成、橋名表記は新天竜橋)が架橋されるまで旧東海道歩きの旅人にとっては東海道屈指の難所だったらしい。


天竜川橋
昭和8年(1933年)完成の天竜川橋。トラス橋14連からなる919.5mもの橋長さ。確かにここを歩いて渡るのは危険。


旧東海道 長森
天竜川を越えて天竜橋跡東詰付近の旧東海道に。写真は南方向(江戸方)、後方が江戸期の東海道で池田の渡しに向かう。日没が迫り天竜橋跡東詰から池田の渡しにかけての旧東海道は後日歩くことに。


長森立場
長森立場(現 磐田市長森) 京方入口。旧東海道は左から奥方向へ曲がる。長森は立野村(現 磐田市立野)の枝郷で、あかぎれや切り傷に抜群の効能がある膏薬「長森かうやく」が名物だった。


山田与左衛門家
「長森かうやく」の旧製造元、山田与左衛門家。万治年間(1658年~60年)から膏薬を作りはじめ、「長森かうやく」の商品名で往来する旅人に販売、人気の高い土産物だったという。膏薬の製造方法は極秘で代々当主のみが受け継ぎ、妻ですら明らかにされなかった。現在は作られていない。


スナック冬のソナタ
豊田西之島と森下の境、”スナック冬のソナタ”の看板がその境を示す。この辺り、江戸時代は松並木。


西之島学校跡
若宮八幡宮の境内一角にある西之島学校跡。


西之島学校の写真02
西之島学校校舎(旧見付学校の展示より)。写真は後身の井通尋常高等小学校時代。明治8年(1875年)西之島村の熊谷三郎馬(青城)が発足人となり校舎が落成、見付学校や坊中学校と並び遠州三大学校の一つに数えられた。昭和29年(1954年)まで井通小学校校舎の一部として使われたが、学校移転に伴い民間に払い下げられ、昭和42年(1967年)取り壊された。井通小学校は現在の豊田南小学校。


旧東海道 森下
森下南交差点付近の旧東海道。


森下の松並木
森下と宮之一色の境に残る松並木。


宮之一色秋葉山常夜燈
宮之一色秋葉山常夜燈。平成8年の部分改修で棟札が見つかり、文政11年(1828年)建立と判明した。


神宮山松向寺
神宮山松向寺。


宮之一色一里塚
昭和46年(1971年)に復元された宮之一色一里塚(北塚)。江戸日本橋から63里目(約247km)、京三条大橋からは55番目で実測約268km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。


宮之一色一里塚
宮之一色一里塚(北塚)より望む南塚跡。


下万能の名残松
下万能の名残松。江戸時代に存在した下万能村は正保年間(1645年~48年)に万能村が上・下に分かれて成立、家屋が東海道筋に1町(約109m)程連ねていた。


一言橋
下万能の東外れ、祝川に架かる一言橋。


大乗院坂
中泉公民館の先から大乗院坂の下り。坂名はかつて坂の途中にあった山伏の修行寺に由来。立場が置かれていた。


中泉西町
中泉西町の町並み。江戸期の中泉町は中泉村と総称する西町・東町・七軒町・西新町の幕府領と、久保村と総称する久保町・田町・石原町の府八幡宮領からなる。天正14年(1586年)徳川家康は当地に中泉御殿を造営、東海道を迂回させ中泉を経由するルートに変更、江戸時代になると御殿に隣接して陣屋を設け遠江全域と駿河の一部を支配した。中泉御殿は寛文10年(1670年)に廃止、陣屋は明治に至るまで存続。


磐田駅前
旧東海道より磐田駅前に延びる駅前通り。明治時代に見付宿を外れて中泉に東海道本線が通されたため見付は衰退、これに反して中泉が発展し磐田市の中心部をなしている。


見付宿
磐田駅から約1.6km北上したところが見付宿京方入口の加茂川橋。


見付宿
見付宿の散策は明日に。暗がりの静岡県道413号をひたすら歩いて宿泊先の磐田グランドホテルへ。


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しまむー

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自称りーまんな旅人。
千葉県在住。

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現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

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