遠江国府
【旧東海道歩き 第20日目】新通町バス停→見付宿→袋井宿→袋井駅
【2016年5月7日(土)旧東海道 見付宿】
宿泊先の磐田グランドホテルを出発、前日に夜間の強行軍となってしまった見付宿を散策すべく、磐田営業所バス停から遠鉄バスに乗車、新通町バス停で下車して旧東海道歩きを再開する。まずは見付宿京方外れの遠江国分寺跡を見学に。
奈良から平安時代にかけて律令国家における地方支配を担った国府。政務を司る国衙を中枢に、天平13年(741年)以降には国分寺・国分尼寺や国府八幡宮、平安時代になって総社が付随して設けられ、日本各国に1ヶ所ずつ存在した。鎌倉時代以降に武家が政権を握るようになると国府は衰退、室町時代には機能どころか建造物も消滅して所在不明の状態だったらしい。近代の発掘調査によって多くの国府遺構が明らかになっており、磐田市の中泉・見付地区の一帯にかけて存在した遠江国府もその一つ。昭和26年(1951年)の発掘調査により国分寺の主要建造物の遺構が見つかり、昭和27年(1952年)国の特別史跡に指定された。国分寺の東側に国府八幡宮(現 府八幡宮)、北東約1km地点に総社の淡海國玉神社があり、遠江国府の全貌が明らかになりそうなもの。しかし肝心の国衙がどこにあったのかが判明しておらず、JR磐田駅南側一帯の御殿・二之宮遺跡が推定地の一つになっている。

宿泊先の磐田グランドホテルを出発。旧東海道にアクセスしやすく、天然温泉もあって旧東海道ウォーカーにはおすすめの宿。ここから近くの磐田営業所バス停から遠鉄バスに乗車し見付方面へ。

新通町バス停で下車、見付宿をぶらぶらしながら先ずは遠江国分寺跡へ。

遠江国分寺想像図(磐田市教育委員会文化財課設置の解説板より)。国分寺は天平13年(741年)聖武天皇の命により、国家鎮護のため日本各国60数ヶ所に造立させた寺院、国分僧寺と国分尼寺からなり、国分僧寺を単に国分寺と通称する。奈良の東大寺が総国分寺。遠江国分寺は南大門を正面入口にして敷地を築地塀で囲い、中門・回廊・金堂・講堂・七重塔等の伽藍を配していた。

国分寺正面入口にあたる南大門跡。

回廊と中門跡。写真右奥、生垣の切れ間が中門跡でその左右から金堂にかけて回廊が巡らされていた。

中門跡より金堂を望む。本尊を安置した金堂は国分寺の中心をなす仏殿で、重層入母屋瓦葺きだったと推定されている。ここに想像図に見るような荘厳たる伽藍を想像できようか。

金堂の裏手、講堂跡より南大門方方向。講堂は経典の講義等に使われた建物で、周辺に堂舎や僧坊、経蔵、食堂、政所、鐘楼等の建物が配されていた。

七重塔跡。15m四方の基壇に高さ66mに及ぶ七重塔が聳え、金光明最勝王経十巻(国分寺経)を納めていたと推定される。

七重塔跡に残る中心礎石。今から1200年以上前に七重塔をこの石が支えていたんだと、平安の昔に思いを馳せて。

遠江国分寺西側面の築地塀跡。土塁が築かれその跡地を示す。

遠江国分寺跡の一角にある参慶山国分寺。遠江四十九薬師霊場の第一番。

この手水石の元は遠江国分寺の礎石。1200年以上の時を経てリサイクルされたわけだ。

遠江国分寺跡の東側面を入口とする参慶山国分寺参道。

遠江国分寺跡の東隣り、府八幡宮へ参拝に。府八幡宮は奈良時代に遠江国司の任に就いた桜井王が建立したと伝わる。

社務所前にある神宮寺の築地塀。社務所辺りは明治元年(1868年)に廃寺となった神宮寺跡、この築地塀だけが残されている。

寛永12年(1635年)建立の楼門。本来ならば江戸時代初期製作の木造随身像2体が楼門左右に座っているのだが、解体修理中のため不在。

拝殿前にある中門は楼門と同時期の建立だが、文化年間(1804年~18年)再建の記録があるという。

府八幡宮拝殿。寛永12年(1635年)の建立で、現建物は正徳4年(1714年)の再建。拝殿最奥にある本殿が元和3年(1617年)の建立で、府八幡宮で最古の建物のようだ。

寛文年間(1661年~72年)建立の東照宮。元々は中泉の御殿山に鎮座していたが、明治6年(1873年)府八幡宮の境内へ移された。現社殿は昭和52年(1977年)の再建。

この記事の最後は国分尼寺跡で。写真左手の台地が国分尼寺跡。現在は住宅地になり遺構は見られない。
【2016年5月7日(土)旧東海道 見付宿】
宿泊先の磐田グランドホテルを出発、前日に夜間の強行軍となってしまった見付宿を散策すべく、磐田営業所バス停から遠鉄バスに乗車、新通町バス停で下車して旧東海道歩きを再開する。まずは見付宿京方外れの遠江国分寺跡を見学に。
奈良から平安時代にかけて律令国家における地方支配を担った国府。政務を司る国衙を中枢に、天平13年(741年)以降には国分寺・国分尼寺や国府八幡宮、平安時代になって総社が付随して設けられ、日本各国に1ヶ所ずつ存在した。鎌倉時代以降に武家が政権を握るようになると国府は衰退、室町時代には機能どころか建造物も消滅して所在不明の状態だったらしい。近代の発掘調査によって多くの国府遺構が明らかになっており、磐田市の中泉・見付地区の一帯にかけて存在した遠江国府もその一つ。昭和26年(1951年)の発掘調査により国分寺の主要建造物の遺構が見つかり、昭和27年(1952年)国の特別史跡に指定された。国分寺の東側に国府八幡宮(現 府八幡宮)、北東約1km地点に総社の淡海國玉神社があり、遠江国府の全貌が明らかになりそうなもの。しかし肝心の国衙がどこにあったのかが判明しておらず、JR磐田駅南側一帯の御殿・二之宮遺跡が推定地の一つになっている。

宿泊先の磐田グランドホテルを出発。旧東海道にアクセスしやすく、天然温泉もあって旧東海道ウォーカーにはおすすめの宿。ここから近くの磐田営業所バス停から遠鉄バスに乗車し見付方面へ。

新通町バス停で下車、見付宿をぶらぶらしながら先ずは遠江国分寺跡へ。

遠江国分寺想像図(磐田市教育委員会文化財課設置の解説板より)。国分寺は天平13年(741年)聖武天皇の命により、国家鎮護のため日本各国60数ヶ所に造立させた寺院、国分僧寺と国分尼寺からなり、国分僧寺を単に国分寺と通称する。奈良の東大寺が総国分寺。遠江国分寺は南大門を正面入口にして敷地を築地塀で囲い、中門・回廊・金堂・講堂・七重塔等の伽藍を配していた。

国分寺正面入口にあたる南大門跡。

回廊と中門跡。写真右奥、生垣の切れ間が中門跡でその左右から金堂にかけて回廊が巡らされていた。

中門跡より金堂を望む。本尊を安置した金堂は国分寺の中心をなす仏殿で、重層入母屋瓦葺きだったと推定されている。ここに想像図に見るような荘厳たる伽藍を想像できようか。

金堂の裏手、講堂跡より南大門方方向。講堂は経典の講義等に使われた建物で、周辺に堂舎や僧坊、経蔵、食堂、政所、鐘楼等の建物が配されていた。

七重塔跡。15m四方の基壇に高さ66mに及ぶ七重塔が聳え、金光明最勝王経十巻(国分寺経)を納めていたと推定される。

七重塔跡に残る中心礎石。今から1200年以上前に七重塔をこの石が支えていたんだと、平安の昔に思いを馳せて。

遠江国分寺西側面の築地塀跡。土塁が築かれその跡地を示す。

遠江国分寺跡の一角にある参慶山国分寺。遠江四十九薬師霊場の第一番。

この手水石の元は遠江国分寺の礎石。1200年以上の時を経てリサイクルされたわけだ。

遠江国分寺跡の東側面を入口とする参慶山国分寺参道。

遠江国分寺跡の東隣り、府八幡宮へ参拝に。府八幡宮は奈良時代に遠江国司の任に就いた桜井王が建立したと伝わる。

社務所前にある神宮寺の築地塀。社務所辺りは明治元年(1868年)に廃寺となった神宮寺跡、この築地塀だけが残されている。

寛永12年(1635年)建立の楼門。本来ならば江戸時代初期製作の木造随身像2体が楼門左右に座っているのだが、解体修理中のため不在。

拝殿前にある中門は楼門と同時期の建立だが、文化年間(1804年~18年)再建の記録があるという。

府八幡宮拝殿。寛永12年(1635年)の建立で、現建物は正徳4年(1714年)の再建。拝殿最奥にある本殿が元和3年(1617年)の建立で、府八幡宮で最古の建物のようだ。

寛文年間(1661年~72年)建立の東照宮。元々は中泉の御殿山に鎮座していたが、明治6年(1873年)府八幡宮の境内へ移された。現社殿は昭和52年(1977年)の再建。

この記事の最後は国分尼寺跡で。写真左手の台地が国分尼寺跡。現在は住宅地になり遺構は見られない。

スポンサーサイト