袋井宿
【旧東海道歩き 第21日目】袋井駅→袋井宿→掛川宿→掛川駅
【2016年6月25日(土)旧東海道 袋井宿】

東海道五十三次之内袋井 出茶屋ノ図
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「袋井宿」より引用
江戸日本橋から東海道五十三次を27宿目、京都三条大橋からは27宿目、ちょうど五十三次のど真ん中にあたる袋井宿。江戸方の掛川宿へ2里16町(約9.6km)、京方の見付宿へ1里半(約5.9km)の里程。宿場の開設は元和2年(1616年)、見付宿と掛川宿間の距離が長くて不便なため、中間にあった茶屋をもとに宿場を成立させた。宿内町並み東西5町15間(573m)で、東海道53次で最も短い町並みの宿場町、西から川原町・本町・新町・茅町と続く。天保14年(1843年)当時の人口843人、家数195軒、うち本陣3軒、脇本陣なし、旅籠屋50軒。本陣は東本陣を壱番御本陣として田代八郎左衛門家、中本陣が大田八兵衛家、西本陣を大田八蔵家が務めた。周辺には法多山尊永寺、医王山油山寺、萬松山可睡斎の遠州三山と呼ばれる名刹があり、その門前町としても賑わう。名物は鰻、すっぽん、火縄等。

JR袋井駅に降り立ち。

静橋を渡って袋井宿へ向かう。

静橋北交差点で旧東海道に歩みを戻す。ちなみに原野谷川に架かる静橋からここまでの道は旧法多小路にあたり、遠州三山の一つ、法多山尊永寺へ至る道。原野谷川から先、尊永寺までは法多街道と称した。

まずは川井にある澤野医院記念館を見学に。澤野家は享保12年(1727年)に作られた「山名郡川井村差出明細帳」に本道医としてその名が見え、江戸時代からこの地で代々医業を営んできた。昭和末期に廃業し10年程空き家になっていたとのこと、澤野家より建物が袋井市に寄贈され、平成11年(1999年)市指定文化財に。病棟と洋館は昭和初期、居宅が幕末から明治期の建築と考えられている。

旧澤野医院診察室。机上に置く写真は最後の澤野院長だろうか。

こちらはレントゲン室。日立メディコ製のレントゲン装置が現存。

機材を当時そのままに展示する手術室。

旧澤野医院居宅。

袋井宿と川井村の境を示した御料傍示杭跡。

御幸橋(旧中川土橋)の両側は袋井宿の旧川原町。

御幸橋東詰、高札場風解説板と復元の見付石垣を設ける。

旧川原町東海道筋にあるどまん中丸凧ギャラリー。袋井の丸凧は、二代目歌川広重が江戸末期に描いた浮世絵「諸国名所百景」の一枚、「遠州秋葉遠景袋井凧」に見られ、江戸時代に袋井で盛んに揚げられていたという。近年になって再現させる動きが活発になっている。

西本陣大田八蔵家跡。

西本陣跡前を行く旧東海道。

魚源(写真左手前)が中本陣大田八兵衛家跡。

静橋北交差点、南東角にある袋井宿場公園。

袋井宿場公園。青々と茂る芝生が眩しい。

東本陣田代八郎左衛門家跡。壱番御本陣と呼ばれ、3軒ある本陣の中で最も格式が高かったようだ。

東本陣跡は冠木門のモニュメントを置き、小庭園として整備されている。

東本陣敷地全体の坪数1068坪、塀を除いた建坪が288坪もあり、規模の大きさをうかがう。敷石や芝生によって本陣の間取りがわかるようになっている。

旧新町より白髭神社の参道が延びる。

玄明小路入口にある秋葉山常夜燈。

玄明小路は北側の畑に通じる住民の道だった。

菅原寺へと通じていた菅原小路。

袋井宿の旧茅町にある食堂坂口屋。江戸時代の茶屋が前身ではないかと感じる佇まいだが、残念ながら廃業してしまったように見える。

袋井宿東端には”東海道どまん中茶屋”。広重の浮世絵に描かれる出茶屋をよく再現している。茶屋の方にお茶を勧められたので立ち寄ることに。

どまん中茶屋で頂いた”どまん中袋井宿今昔マップ”。現在と江戸時代の袋井宿地図を長巻物の表裏に印刷し、観光ポイントと簡潔な解説を付けた秀逸のガイドマップ。これは使える。

お土産に”ふくろい茶”を購入。

袋井宿江戸方(東側)端に架かる天橋(阿麻橋)。

天橋東詰、旧道は袋井市総合センター辺りで一時消失。

新屋2丁目で旧道が現れ北東へ向けて道を延ばす。

新屋に残る木造屋形の秋葉山常夜燈。

屋根に載せる鯱の愛らしい表情に思わず微笑んでしまう。

新屋の旧道消失地点。「夢舞台・東海道 西新屋」の道標が立つ。

新屋の旧道出現地点付近。こちらには「夢舞台・東海道 東新屋」の道標が立つ。

国本の旧東海道沿いにあるスズキ化石資料館。
スズキ化石資料館
http://www.geocities.jp/suzuki_kasekikan/

スズキ化石資料館を過ぎて間もなく、旧東海道の松並木がはじまる。

可睡三尺坊道標(写真手前)と油山寺道標(右奥)。ここから北へ分かれる道は遠州三山の萬松山可睡斎、医王山油山寺へ至る旧道。

油山寺道標。文政11年(1828年)建立。

遠州の古刹へと続く信仰の道だった可睡三尺坊・油山寺道。

国本に残る東海道松並木。

松並木の奥にひっそりと鎮座する七ツ森神社。桓武天皇の時代、日坂に棲む怪鳥退治で返り討ちにあい命を落とした7人を哀れみ、村人が7つの塚を造ってその霊を弔ったとの伝説がある。その七つの塚は残存していないが、七ツ森神社は一番大きな塚上に位置しているという。祭神に祀る久努国造 (くどのくにのみやつこ)は古墳時代にこの地方を支配していたとされ、七つの塚は古墳だったとも考えられている。
【2016年6月25日(土)旧東海道 袋井宿】

東海道五十三次之内袋井 出茶屋ノ図
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「袋井宿」より引用
江戸日本橋から東海道五十三次を27宿目、京都三条大橋からは27宿目、ちょうど五十三次のど真ん中にあたる袋井宿。江戸方の掛川宿へ2里16町(約9.6km)、京方の見付宿へ1里半(約5.9km)の里程。宿場の開設は元和2年(1616年)、見付宿と掛川宿間の距離が長くて不便なため、中間にあった茶屋をもとに宿場を成立させた。宿内町並み東西5町15間(573m)で、東海道53次で最も短い町並みの宿場町、西から川原町・本町・新町・茅町と続く。天保14年(1843年)当時の人口843人、家数195軒、うち本陣3軒、脇本陣なし、旅籠屋50軒。本陣は東本陣を壱番御本陣として田代八郎左衛門家、中本陣が大田八兵衛家、西本陣を大田八蔵家が務めた。周辺には法多山尊永寺、医王山油山寺、萬松山可睡斎の遠州三山と呼ばれる名刹があり、その門前町としても賑わう。名物は鰻、すっぽん、火縄等。

JR袋井駅に降り立ち。

静橋を渡って袋井宿へ向かう。

静橋北交差点で旧東海道に歩みを戻す。ちなみに原野谷川に架かる静橋からここまでの道は旧法多小路にあたり、遠州三山の一つ、法多山尊永寺へ至る道。原野谷川から先、尊永寺までは法多街道と称した。

まずは川井にある澤野医院記念館を見学に。澤野家は享保12年(1727年)に作られた「山名郡川井村差出明細帳」に本道医としてその名が見え、江戸時代からこの地で代々医業を営んできた。昭和末期に廃業し10年程空き家になっていたとのこと、澤野家より建物が袋井市に寄贈され、平成11年(1999年)市指定文化財に。病棟と洋館は昭和初期、居宅が幕末から明治期の建築と考えられている。

旧澤野医院診察室。机上に置く写真は最後の澤野院長だろうか。

こちらはレントゲン室。日立メディコ製のレントゲン装置が現存。

機材を当時そのままに展示する手術室。

旧澤野医院居宅。

袋井宿と川井村の境を示した御料傍示杭跡。

御幸橋(旧中川土橋)の両側は袋井宿の旧川原町。

御幸橋東詰、高札場風解説板と復元の見付石垣を設ける。

旧川原町東海道筋にあるどまん中丸凧ギャラリー。袋井の丸凧は、二代目歌川広重が江戸末期に描いた浮世絵「諸国名所百景」の一枚、「遠州秋葉遠景袋井凧」に見られ、江戸時代に袋井で盛んに揚げられていたという。近年になって再現させる動きが活発になっている。

西本陣大田八蔵家跡。

西本陣跡前を行く旧東海道。

魚源(写真左手前)が中本陣大田八兵衛家跡。

静橋北交差点、南東角にある袋井宿場公園。

袋井宿場公園。青々と茂る芝生が眩しい。

東本陣田代八郎左衛門家跡。壱番御本陣と呼ばれ、3軒ある本陣の中で最も格式が高かったようだ。

東本陣跡は冠木門のモニュメントを置き、小庭園として整備されている。

東本陣敷地全体の坪数1068坪、塀を除いた建坪が288坪もあり、規模の大きさをうかがう。敷石や芝生によって本陣の間取りがわかるようになっている。

旧新町より白髭神社の参道が延びる。

玄明小路入口にある秋葉山常夜燈。

玄明小路は北側の畑に通じる住民の道だった。

菅原寺へと通じていた菅原小路。

袋井宿の旧茅町にある食堂坂口屋。江戸時代の茶屋が前身ではないかと感じる佇まいだが、残念ながら廃業してしまったように見える。

袋井宿東端には”東海道どまん中茶屋”。広重の浮世絵に描かれる出茶屋をよく再現している。茶屋の方にお茶を勧められたので立ち寄ることに。

どまん中茶屋で頂いた”どまん中袋井宿今昔マップ”。現在と江戸時代の袋井宿地図を長巻物の表裏に印刷し、観光ポイントと簡潔な解説を付けた秀逸のガイドマップ。これは使える。

お土産に”ふくろい茶”を購入。

袋井宿江戸方(東側)端に架かる天橋(阿麻橋)。

天橋東詰、旧道は袋井市総合センター辺りで一時消失。

新屋2丁目で旧道が現れ北東へ向けて道を延ばす。

新屋に残る木造屋形の秋葉山常夜燈。

屋根に載せる鯱の愛らしい表情に思わず微笑んでしまう。

新屋の旧道消失地点。「夢舞台・東海道 西新屋」の道標が立つ。

新屋の旧道出現地点付近。こちらには「夢舞台・東海道 東新屋」の道標が立つ。

国本の旧東海道沿いにあるスズキ化石資料館。
スズキ化石資料館
http://www.geocities.jp/suzuki_kasekikan/

スズキ化石資料館を過ぎて間もなく、旧東海道の松並木がはじまる。

可睡三尺坊道標(写真手前)と油山寺道標(右奥)。ここから北へ分かれる道は遠州三山の萬松山可睡斎、医王山油山寺へ至る旧道。

油山寺道標。文政11年(1828年)建立。

遠州の古刹へと続く信仰の道だった可睡三尺坊・油山寺道。

国本に残る東海道松並木。

松並木の奥にひっそりと鎮座する七ツ森神社。桓武天皇の時代、日坂に棲む怪鳥退治で返り討ちにあい命を落とした7人を哀れみ、村人が7つの塚を造ってその霊を弔ったとの伝説がある。その七つの塚は残存していないが、七ツ森神社は一番大きな塚上に位置しているという。祭神に祀る久努国造 (くどのくにのみやつこ)は古墳時代にこの地方を支配していたとされ、七つの塚は古墳だったとも考えられている。

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