掛川から日坂に
【旧東海道歩き 第22日目】スマイルホテル掛川→掛川城下→日坂宿→金谷宿→金谷駅
【2016年7月17日(日)旧東海道 掛川宿→日坂宿】
遅ればせながら、梅雨明け間近の7月中旬に掛川宿から日坂宿を経て金谷宿まで歩いた道中を記事に。かつて掛川宿を出た旧東海道は逆川を渡り、東岸から馬喰町、成滝、薗ヶ谷、山鼻、本庄(本所)、伊達方(とのがい、ぬめり川)、塩井川原を経て日坂宿に着く。一里二十九町(約7.1kmの道程だった。

掛川宿江戸方外れにある新町東伝寺入口バス停。ここから本日の旧東海道歩きを再開する。

馬喰橋西詰。左手に掛川名物の振袖餅を販売する”もちや”がある。かつての東海道は馬喰橋手前で右に曲がり、逆川左岸を少し行ったところで渡河していた。

馬喰橋西詰より掛川方向。右手が”もちや”。

”もちや”の敷地内に置かれる「掛川宿名物 振袖餅」の石碑。”もちや”は江戸時代後期創業の老舗和菓子店。名物の振袖餅は、当初の平たい形から着物の振袖に見立ててその名が付いたとされる。残念ながら開店前で現代の振袖餅は買えず…、詳しくはこちらから↓
菓子処もちや
http://mochiya-s.com/311580/

”もちや”の向かい、逆川左岸に葛川一里塚があった。馬喰橋西袂に跡地を示す碑がある。

葛川一里塚跡は江戸日本橋から58里目(約228km)、京三条大橋からは59番目で実測約290km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。両塚とも現存せず。

馬喰橋と逆川。

馬喰橋東詰の旧東海道。かつてこの辺りの旧東海道筋は馬喰町と呼ばれ、橋名だけにその名を残している。

成滝を行く旧東海道。

伊達医院近くの路傍にある「記念 西山口村」と刻む碑。上部が崩壊しているようで、何を記念したものかが分からない。西山口村は明治22年(1889年)葛川村、成滝村、薗ヶ谷村等が合併して成立、昭和26年(1951年)掛川町に吸収合併されるまで存在した。

本村橋交差点にある夢舞台東海道「成滝」道標。ここで旧東海道は静岡県道415号に合流する。

本村橋交差点付近は薗ヶ谷区と成滝区の境にあたり、沿道には薗ヶ谷・成滝ふれあいロードの看板を掲げ、路傍に設ける花壇が綺麗な景観を見せてくれる。

ここが交差点名の由来、本村橋。車で通り過ぎたらまず気づかない。

本村橋の次は溝橋。

薗ヶ谷を行く静岡県道415号。左手に山が迫ってくる。

中橋を過ぎれば薗ヶ谷から千羽に。

千羽の静岡県道415号付近一帯は山鼻と呼ばれる集落を形成、立場が置かれていた。

現在はバス停や歩道橋に山鼻の地名を見ることができる。

千羽の東隣、本所に入ると右手に榛葉鉄工所。

静岡県道415号の岩橋を渡り。

右手を見れば逆川の向こうに栄川中学校を見る。

夢舞台東海道「本所」道標。ここで静岡県道415号を旧東海道が分かれる。

本所の六地蔵。

諏訪神社付近、伊達方の旧東海道。

逆川右岸にある諏訪神社。社伝によれば貞観16年(874年)諏訪大社より祭神を勧請したことに起源があるという。相殿に祀る須佐之男命は牛頭村(現 掛川市逆川)の天王森にあったが、その祠前を通る旅人に不慮の事故が起こることから、元和元年(1615年)ここに合祀されたと伝わる。

旧東海道は諏訪神社から再び静岡県道415号に合流、約150mを東へ進んだここで右に分かれる。

横断歩道の左が慶雲寺参道入口。

参道入口に立つ慶雲寺道道標。

慶雲寺道道標から参道を挟んで向かいには「歌人石川依平翁出生地」碑を置く。石川依平は江戸後期の国学者で歌人、少年期に冷泉為章の門人となり歌道を学び、22歳の時に同郷の栗田土満(真淵・宣長門下)へ入門し国学に精進する。後に多くの著書を残し多くの門弟を抱え活躍した。

伊達方に鎮座する大頭龍神社。

大頭龍神社境内にある「西方村 堀ノ内駅 ニ通ズ」と刻む道標。大正2年(1913年)建立。

大頭龍神社の向かいに伊達方一里塚跡(新東名の道路標識裏手)。江戸日本橋から57里目(約224km)、京三条大橋からは60番目で実測約294km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。両塚とも現存せず。付近に解説板を設置している。

伊達方は中世の豪族伊達氏の知行地だったことが地名の由来とされる。

嵐牛蔵美術館。江戸時代後期から明治期にかけて活躍した俳人伊藤嵐牛の作品が展示されているようだが、見学には事前に予約が必要とのこと。ここは伊藤嵐牛の出生地で美術館は子孫の方が開設運営している。

塩井川原(掛川市八坂)を行く旧東海道。

旧東海道が静岡県道415号に合流する地点、逆川右岸に立つ塩井神社の鳥居。

塩井神社は鳥居から逆川の対岸にあるため、参道には心許ない板橋が架けられている。

参道の板橋上より逆川下流を望む。

塩井神社拝殿。

境内にはたくさんのハグロトンボが羽を休める。みんな同じ方向を向いていて面白い。

羽を広げた決定的瞬間。

塩井神社より参道を旧東海道に戻ろう。川が増水したらひとたまりも無さそうな板橋、雨天じゃなくてよかった。

塩井神社の鳥居を過ぎれは八坂I.C交差点に。

中遠環境保全(写真左手)前の静岡県道415号。かつての東海道は中遠環境保全の敷地内を通っていた。

県道沿いにある石神農園の”みどり茶屋”。

左右に山が迫ってくる。

宮村バス停。

事任(ことのまま)八幡宮の南、雄鯨山跡(写真右手)。現在は造成されて雄鯨山は無いが、道の駅掛川の北東に雌鯨山が現存する。竜王の命で嫁石権現の姫をもらい受けに川を遡ってきた雄雌二頭の大鯨、しかし権現に拒絶されたうえ事任八幡に碁石で撃ち殺されて山に姿を変えたと云う。大鯨が遡上する際、川が逆流しているように見えたことから、逆川の名が付いたと伝わる。

日坂宿の京方外れに鎮座する遠江国一の宮、事任八幡宮。右手に拝殿や本殿をはじめ社務所や摂社・末社、左手山中に本宮がある。

境内に聳える大楠。

事任八幡宮拝殿。古くより願い事を”ことのまま”に叶えてくれる神と伝わる。主祭神は己等乃麻知媛命 (ことのまちひめのみこと)。創建年代は不詳、大同2年(807年)坂上田村麻呂が桓武天皇の勅を奉じ再興したと伝わる。康平5年(1062年)源頼義が石清水八幡を勧請、八幡宮を称するように。江戸時代の通称は「誉田八幡宮」だった。

事任八幡宮境内。

事任八幡宮本宮入口。ここから本宮山を登った山中に本宮がある。

本宮へ続く石段。

事任八幡宮本宮。坂上田村麻呂が再興するまではこちらが社地だった。

本宮社殿の周りには白い石が敷き詰められる。この石を3つ選び1つ目は神様、2つ目がみんな、3つ目が自分のためにと願を懸けて布や紙で磨くと福があるという。
【2016年7月17日(日)旧東海道 掛川宿→日坂宿】
遅ればせながら、梅雨明け間近の7月中旬に掛川宿から日坂宿を経て金谷宿まで歩いた道中を記事に。かつて掛川宿を出た旧東海道は逆川を渡り、東岸から馬喰町、成滝、薗ヶ谷、山鼻、本庄(本所)、伊達方(とのがい、ぬめり川)、塩井川原を経て日坂宿に着く。一里二十九町(約7.1kmの道程だった。

掛川宿江戸方外れにある新町東伝寺入口バス停。ここから本日の旧東海道歩きを再開する。

馬喰橋西詰。左手に掛川名物の振袖餅を販売する”もちや”がある。かつての東海道は馬喰橋手前で右に曲がり、逆川左岸を少し行ったところで渡河していた。

馬喰橋西詰より掛川方向。右手が”もちや”。

”もちや”の敷地内に置かれる「掛川宿名物 振袖餅」の石碑。”もちや”は江戸時代後期創業の老舗和菓子店。名物の振袖餅は、当初の平たい形から着物の振袖に見立ててその名が付いたとされる。残念ながら開店前で現代の振袖餅は買えず…、詳しくはこちらから↓
菓子処もちや
http://mochiya-s.com/311580/

”もちや”の向かい、逆川左岸に葛川一里塚があった。馬喰橋西袂に跡地を示す碑がある。

葛川一里塚跡は江戸日本橋から58里目(約228km)、京三条大橋からは59番目で実測約290km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。両塚とも現存せず。

馬喰橋と逆川。

馬喰橋東詰の旧東海道。かつてこの辺りの旧東海道筋は馬喰町と呼ばれ、橋名だけにその名を残している。

成滝を行く旧東海道。

伊達医院近くの路傍にある「記念 西山口村」と刻む碑。上部が崩壊しているようで、何を記念したものかが分からない。西山口村は明治22年(1889年)葛川村、成滝村、薗ヶ谷村等が合併して成立、昭和26年(1951年)掛川町に吸収合併されるまで存在した。

本村橋交差点にある夢舞台東海道「成滝」道標。ここで旧東海道は静岡県道415号に合流する。

本村橋交差点付近は薗ヶ谷区と成滝区の境にあたり、沿道には薗ヶ谷・成滝ふれあいロードの看板を掲げ、路傍に設ける花壇が綺麗な景観を見せてくれる。

ここが交差点名の由来、本村橋。車で通り過ぎたらまず気づかない。

本村橋の次は溝橋。

薗ヶ谷を行く静岡県道415号。左手に山が迫ってくる。

中橋を過ぎれば薗ヶ谷から千羽に。

千羽の静岡県道415号付近一帯は山鼻と呼ばれる集落を形成、立場が置かれていた。

現在はバス停や歩道橋に山鼻の地名を見ることができる。

千羽の東隣、本所に入ると右手に榛葉鉄工所。

静岡県道415号の岩橋を渡り。

右手を見れば逆川の向こうに栄川中学校を見る。

夢舞台東海道「本所」道標。ここで静岡県道415号を旧東海道が分かれる。

本所の六地蔵。

諏訪神社付近、伊達方の旧東海道。

逆川右岸にある諏訪神社。社伝によれば貞観16年(874年)諏訪大社より祭神を勧請したことに起源があるという。相殿に祀る須佐之男命は牛頭村(現 掛川市逆川)の天王森にあったが、その祠前を通る旅人に不慮の事故が起こることから、元和元年(1615年)ここに合祀されたと伝わる。

旧東海道は諏訪神社から再び静岡県道415号に合流、約150mを東へ進んだここで右に分かれる。

横断歩道の左が慶雲寺参道入口。

参道入口に立つ慶雲寺道道標。

慶雲寺道道標から参道を挟んで向かいには「歌人石川依平翁出生地」碑を置く。石川依平は江戸後期の国学者で歌人、少年期に冷泉為章の門人となり歌道を学び、22歳の時に同郷の栗田土満(真淵・宣長門下)へ入門し国学に精進する。後に多くの著書を残し多くの門弟を抱え活躍した。

伊達方に鎮座する大頭龍神社。

大頭龍神社境内にある「西方村 堀ノ内駅 ニ通ズ」と刻む道標。大正2年(1913年)建立。

大頭龍神社の向かいに伊達方一里塚跡(新東名の道路標識裏手)。江戸日本橋から57里目(約224km)、京三条大橋からは60番目で実測約294km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。両塚とも現存せず。付近に解説板を設置している。

伊達方は中世の豪族伊達氏の知行地だったことが地名の由来とされる。

嵐牛蔵美術館。江戸時代後期から明治期にかけて活躍した俳人伊藤嵐牛の作品が展示されているようだが、見学には事前に予約が必要とのこと。ここは伊藤嵐牛の出生地で美術館は子孫の方が開設運営している。

塩井川原(掛川市八坂)を行く旧東海道。

旧東海道が静岡県道415号に合流する地点、逆川右岸に立つ塩井神社の鳥居。

塩井神社は鳥居から逆川の対岸にあるため、参道には心許ない板橋が架けられている。

参道の板橋上より逆川下流を望む。

塩井神社拝殿。

境内にはたくさんのハグロトンボが羽を休める。みんな同じ方向を向いていて面白い。

羽を広げた決定的瞬間。

塩井神社より参道を旧東海道に戻ろう。川が増水したらひとたまりも無さそうな板橋、雨天じゃなくてよかった。

塩井神社の鳥居を過ぎれは八坂I.C交差点に。

中遠環境保全(写真左手)前の静岡県道415号。かつての東海道は中遠環境保全の敷地内を通っていた。

県道沿いにある石神農園の”みどり茶屋”。

左右に山が迫ってくる。

宮村バス停。

事任(ことのまま)八幡宮の南、雄鯨山跡(写真右手)。現在は造成されて雄鯨山は無いが、道の駅掛川の北東に雌鯨山が現存する。竜王の命で嫁石権現の姫をもらい受けに川を遡ってきた雄雌二頭の大鯨、しかし権現に拒絶されたうえ事任八幡に碁石で撃ち殺されて山に姿を変えたと云う。大鯨が遡上する際、川が逆流しているように見えたことから、逆川の名が付いたと伝わる。

日坂宿の京方外れに鎮座する遠江国一の宮、事任八幡宮。右手に拝殿や本殿をはじめ社務所や摂社・末社、左手山中に本宮がある。

境内に聳える大楠。

事任八幡宮拝殿。古くより願い事を”ことのまま”に叶えてくれる神と伝わる。主祭神は己等乃麻知媛命 (ことのまちひめのみこと)。創建年代は不詳、大同2年(807年)坂上田村麻呂が桓武天皇の勅を奉じ再興したと伝わる。康平5年(1062年)源頼義が石清水八幡を勧請、八幡宮を称するように。江戸時代の通称は「誉田八幡宮」だった。

事任八幡宮境内。

事任八幡宮本宮入口。ここから本宮山を登った山中に本宮がある。

本宮へ続く石段。

事任八幡宮本宮。坂上田村麻呂が再興するまではこちらが社地だった。

本宮社殿の周りには白い石が敷き詰められる。この石を3つ選び1つ目は神様、2つ目がみんな、3つ目が自分のためにと願を懸けて布や紙で磨くと福があるという。

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