小夜の中山
【2016年7月17日(日)旧東海道 日坂宿→金谷宿】
日坂宿と菊川村(中世の菊川宿)の間は”小夜の中山”と呼ばれ、東海道にあっては数少ない峠道、箱根峠や鈴鹿峠に並び東海道三大難所の一つに数えられた。その道中には往来の旅人を阻むが如く、道中央に夜泣石と呼ばれる大石があり、その様子は広重の浮世絵「東海道五十三次之内日坂 佐夜ノ中山」に見ることができる。残念ながら 夜泣石は旧地に無く、跡地に設ける碑文によれば、「明治初年東京で博覧会があり、出品された帰途、現在の位置に移る。」と書かれてる。ここにある博覧会とは明治14年(1881年)東京上野で開催された内国勧業博覧会のこと。”現在の位置”と曖昧な表現になっているのには理由がある。現在、夜泣石と呼ばれる大石が二つあるのだ。博覧会に出品された後、どんな経緯を辿ったのか真相を知る由もないが、夜泣石は国道1号沿いの小泉屋付近と、久延寺(掛川市佐夜鹿)の境内にある。

日坂宿の家並みが途切れれば、静岡県道415号を渡った先から”小夜の中山”の登りがはじまる。ここから沓掛の集落に至る坂道は”沓掛の坂”とも呼ばれた。上を通る高架道路は国道1号の日坂バイパス。

登り口には広重が描いた狂歌入の浮世絵「東海道五拾三次 日阪」を掲げる。

少し登ったところで振り返り。日坂バイパスを往来する車が眼下に。かつてこの辺り、街道筋に茶屋が並び坂口町と称していたようだ。今や茶屋跡は茶畑と化している。

ここを右に入れば日乃坂神社が鎮座。

ひっそりと山中に鎮座する日乃坂神社。この辺りの旧地名は沓掛、草鞋や馬の沓を山の神に手向け、道中の安全を祈願したとの慣習から地名がついたという。同じ地名が中山道の沓掛宿をはじめ、全国の旧街道筋に見られる。

神社参道入口の路傍には”二の曲りと沓掛”の解説板が横たわる。

かつて”二の曲り”と呼ばれた沓掛の坂。曲がりくねって急坂が続く。

”二の曲り”を過ぎれば緩やかな上りに。

沓掛の坂上。ここが沓掛と呼ばれた集落と思われる。

旧道は緩やかになって周辺には茶畑が広がる。

路傍にある東海道五十三次浮世絵碑。

そしてここが夜泣石跡。ここの道中央に夜泣石はあったのだ。伝説を東海道名所記から要約して紹介。
昔、日坂に住む妊婦が金谷の親を訪ねる道中で強盗に襲われ殺される。近辺に住む法師が憐れんで妊婦の腹から子を取り出し育てることに。その子は15歳になったときに寺を出て、池田宿のとある家で使用人となり、常に「命なりけりさよの中山」と口ずさんでいた。これを主が疑問に思って子に理由を問うと、子は自身の壮絶な出生について語る。主は話を聞いて大いに驚き、佐夜の中山で起きたその事件の犯人は隣の家の主だと教える。その夜、子は主の助力を得て親の仇討ちを果たしたという。
この妊婦の霊が乗り移り、夜毎に泣いたとされるのが夜泣石、その子は久延寺の法師に飴を与えられて育てられたと伝わる。

夜泣石跡の路傍には往時を偲び碑を設けている。

東海道五十三次之内日坂 佐夜ノ中山
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「日坂宿」より引用
広重の浮世絵に描かれる夜泣石。

浮世絵に近いアングルで夜泣石跡を撮影してみた。浮世絵に見える急坂は、かなり誇張が入っているような…。しかしここを実際に歩いてみれば広重の気持ちがわかろう。

草むらの中に芭蕉句碑。
馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり

旧東海道右手には涼み松広場。

涼み松広場の向かいには妊婦の墓がある。

夜泣き石に乗り移った妊婦の墓。「古懐妊女夜泣松三界萬霊等」と刻む。

涼み松広場方面を振り返って。

壬生忠岑歌碑。
東路の さやの中山さやかにも 見えぬ雲井に 世をや尽くさん

小夜の中山旧道。

路傍には白山神社が鎮座。

芭蕉句碑。
道のべの 木槿は馬に くはれけり

雑木林の中にひっそりと佇む鎧塚。建武2年(1335年)北条時行が建武政権に対し挙兵(中先代の乱)、北条方の名越邦時と鎮圧軍足利方の今川頼国が小夜の中山で戦闘になり、邦時は壮絶な討死を遂げる。頼国は邦時の武勇を称えここに塚を造り葬ったという。頼国も続く相模川での戦いで討死した。

鎧塚付近の旧東海道。

佐夜鹿神明神社。

小夜中山の集落に。右の家は”蔦屋”の屋号を掲げている。

佐夜鹿一里塚跡。江戸日本橋から56里目(約220km)、京三条大橋からは61番目で実測約299km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。両塚とも現存しないが小公園として整備される。現地設置の解説板には「東海道分間絵図」(元禄3年、1690年)にある日本橋から日坂宿までの距離(52里30町)を参考にすれば52里、「東海道宿村大概帳」(天保14年、1843年)にある同間の距離(54里26町)を参考にすれば54里に相当する一里塚と説明。

佐夜鹿一里塚跡付近、小夜の中山を行く旧東海道。

松田屋の屋号を掲げる民家。かつては茶屋だったのかもしれない。

小夜の中山公園に。

公園の旧東海道沿いにある円柱状の西行歌碑。文治3年(1186年)西行が欧州の藤原秀衡を訪ねる途次、小夜の中山の道中で詠んだという歌を掲げている。。
年たけて また越ゆべしと おもひきや 命なりけり さやの中山

小夜の中山公園。古そうな石塔が点在している。

公園最奥、石の広場。

石の広場から南東方向を望む。尾根伝いに茶畑が広がる。

小夜の中山公園にて。ツマグロヒョウモンという蝶らしい。

公園敷地東辺にある御上井戸。慶長5年(1600年)会津上杉攻めに向かう徳川家康を、掛川城主山内一豊がこの井戸で水を汲み茶亭を設けて接待したと伝わる。茶亭跡と伝わる場所は久延寺境内にある。

小夜の中山公園に隣接してある元祖扇屋。名物は夜泣石の伝説にある子育飴。

せっかくなので子育飴を頂く。琥珀色の水飴は砂糖を使わず大麦ともち米を原料にして作られ、懐かしさを感じる適度な甘みが峠越えの疲れを癒してくれる。

真言宗久延寺。ここの和尚が夜泣石伝説にある妊婦の子を、飴を与えて育てたと伝わる。

境内にある夜泣石。背後には小さな弘法大師像が立つ。弘法大師は夜泣石にまつわる話を聞き、妊婦に同情して石に仏号を刻んだとも。国道1号沿いの小泉屋(掛川市佐夜鹿)近くにも夜泣石があり、どちらが本物なのかを特定するのも野暮なこと。夜に泣いた方が本物ということで。

久延寺境内。奥の雑木林は山内一豊が徳川家康を接待したと伝わる茶亭跡。

久延寺を過ぎれば道は下りに転じ。

坂の途中にある阿仏尼歌碑。
雲かかる さやの中山 越えぬとは 都に告げよ 有明の月

菊川に向けて下る箭置坂(青木坂)。

下り坂は菊川手前で急カーブ。

急カーブ地点から箭置坂上方向、なかなかの急勾配。上りは大変。

旧東海道はここを直進、石畳の道が復元されている。

箭置坂登り口、石畳が先へ進む意欲を駆り立ててくれる。下りきった先から間の宿菊川の家並み。
日坂宿と菊川村(中世の菊川宿)の間は”小夜の中山”と呼ばれ、東海道にあっては数少ない峠道、箱根峠や鈴鹿峠に並び東海道三大難所の一つに数えられた。その道中には往来の旅人を阻むが如く、道中央に夜泣石と呼ばれる大石があり、その様子は広重の浮世絵「東海道五十三次之内日坂 佐夜ノ中山」に見ることができる。残念ながら 夜泣石は旧地に無く、跡地に設ける碑文によれば、「明治初年東京で博覧会があり、出品された帰途、現在の位置に移る。」と書かれてる。ここにある博覧会とは明治14年(1881年)東京上野で開催された内国勧業博覧会のこと。”現在の位置”と曖昧な表現になっているのには理由がある。現在、夜泣石と呼ばれる大石が二つあるのだ。博覧会に出品された後、どんな経緯を辿ったのか真相を知る由もないが、夜泣石は国道1号沿いの小泉屋付近と、久延寺(掛川市佐夜鹿)の境内にある。

日坂宿の家並みが途切れれば、静岡県道415号を渡った先から”小夜の中山”の登りがはじまる。ここから沓掛の集落に至る坂道は”沓掛の坂”とも呼ばれた。上を通る高架道路は国道1号の日坂バイパス。

登り口には広重が描いた狂歌入の浮世絵「東海道五拾三次 日阪」を掲げる。

少し登ったところで振り返り。日坂バイパスを往来する車が眼下に。かつてこの辺り、街道筋に茶屋が並び坂口町と称していたようだ。今や茶屋跡は茶畑と化している。

ここを右に入れば日乃坂神社が鎮座。

ひっそりと山中に鎮座する日乃坂神社。この辺りの旧地名は沓掛、草鞋や馬の沓を山の神に手向け、道中の安全を祈願したとの慣習から地名がついたという。同じ地名が中山道の沓掛宿をはじめ、全国の旧街道筋に見られる。

神社参道入口の路傍には”二の曲りと沓掛”の解説板が横たわる。

かつて”二の曲り”と呼ばれた沓掛の坂。曲がりくねって急坂が続く。

”二の曲り”を過ぎれば緩やかな上りに。

沓掛の坂上。ここが沓掛と呼ばれた集落と思われる。

旧道は緩やかになって周辺には茶畑が広がる。

路傍にある東海道五十三次浮世絵碑。

そしてここが夜泣石跡。ここの道中央に夜泣石はあったのだ。伝説を東海道名所記から要約して紹介。
昔、日坂に住む妊婦が金谷の親を訪ねる道中で強盗に襲われ殺される。近辺に住む法師が憐れんで妊婦の腹から子を取り出し育てることに。その子は15歳になったときに寺を出て、池田宿のとある家で使用人となり、常に「命なりけりさよの中山」と口ずさんでいた。これを主が疑問に思って子に理由を問うと、子は自身の壮絶な出生について語る。主は話を聞いて大いに驚き、佐夜の中山で起きたその事件の犯人は隣の家の主だと教える。その夜、子は主の助力を得て親の仇討ちを果たしたという。
この妊婦の霊が乗り移り、夜毎に泣いたとされるのが夜泣石、その子は久延寺の法師に飴を与えられて育てられたと伝わる。

夜泣石跡の路傍には往時を偲び碑を設けている。

東海道五十三次之内日坂 佐夜ノ中山
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「日坂宿」より引用
広重の浮世絵に描かれる夜泣石。

浮世絵に近いアングルで夜泣石跡を撮影してみた。浮世絵に見える急坂は、かなり誇張が入っているような…。しかしここを実際に歩いてみれば広重の気持ちがわかろう。

草むらの中に芭蕉句碑。
馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり

旧東海道右手には涼み松広場。

涼み松広場の向かいには妊婦の墓がある。

夜泣き石に乗り移った妊婦の墓。「古懐妊女夜泣松三界萬霊等」と刻む。

涼み松広場方面を振り返って。

壬生忠岑歌碑。
東路の さやの中山さやかにも 見えぬ雲井に 世をや尽くさん

小夜の中山旧道。

路傍には白山神社が鎮座。

芭蕉句碑。
道のべの 木槿は馬に くはれけり

雑木林の中にひっそりと佇む鎧塚。建武2年(1335年)北条時行が建武政権に対し挙兵(中先代の乱)、北条方の名越邦時と鎮圧軍足利方の今川頼国が小夜の中山で戦闘になり、邦時は壮絶な討死を遂げる。頼国は邦時の武勇を称えここに塚を造り葬ったという。頼国も続く相模川での戦いで討死した。

鎧塚付近の旧東海道。

佐夜鹿神明神社。

小夜中山の集落に。右の家は”蔦屋”の屋号を掲げている。

佐夜鹿一里塚跡。江戸日本橋から56里目(約220km)、京三条大橋からは61番目で実測約299km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。両塚とも現存しないが小公園として整備される。現地設置の解説板には「東海道分間絵図」(元禄3年、1690年)にある日本橋から日坂宿までの距離(52里30町)を参考にすれば52里、「東海道宿村大概帳」(天保14年、1843年)にある同間の距離(54里26町)を参考にすれば54里に相当する一里塚と説明。

佐夜鹿一里塚跡付近、小夜の中山を行く旧東海道。

松田屋の屋号を掲げる民家。かつては茶屋だったのかもしれない。

小夜の中山公園に。

公園の旧東海道沿いにある円柱状の西行歌碑。文治3年(1186年)西行が欧州の藤原秀衡を訪ねる途次、小夜の中山の道中で詠んだという歌を掲げている。。
年たけて また越ゆべしと おもひきや 命なりけり さやの中山

小夜の中山公園。古そうな石塔が点在している。

公園最奥、石の広場。

石の広場から南東方向を望む。尾根伝いに茶畑が広がる。

小夜の中山公園にて。ツマグロヒョウモンという蝶らしい。

公園敷地東辺にある御上井戸。慶長5年(1600年)会津上杉攻めに向かう徳川家康を、掛川城主山内一豊がこの井戸で水を汲み茶亭を設けて接待したと伝わる。茶亭跡と伝わる場所は久延寺境内にある。

小夜の中山公園に隣接してある元祖扇屋。名物は夜泣石の伝説にある子育飴。

せっかくなので子育飴を頂く。琥珀色の水飴は砂糖を使わず大麦ともち米を原料にして作られ、懐かしさを感じる適度な甘みが峠越えの疲れを癒してくれる。

真言宗久延寺。ここの和尚が夜泣石伝説にある妊婦の子を、飴を与えて育てたと伝わる。

境内にある夜泣石。背後には小さな弘法大師像が立つ。弘法大師は夜泣石にまつわる話を聞き、妊婦に同情して石に仏号を刻んだとも。国道1号沿いの小泉屋(掛川市佐夜鹿)近くにも夜泣石があり、どちらが本物なのかを特定するのも野暮なこと。夜に泣いた方が本物ということで。

久延寺境内。奥の雑木林は山内一豊が徳川家康を接待したと伝わる茶亭跡。

久延寺を過ぎれば道は下りに転じ。

坂の途中にある阿仏尼歌碑。
雲かかる さやの中山 越えぬとは 都に告げよ 有明の月

菊川に向けて下る箭置坂(青木坂)。

下り坂は菊川手前で急カーブ。

急カーブ地点から箭置坂上方向、なかなかの急勾配。上りは大変。

旧東海道はここを直進、石畳の道が復元されている。

箭置坂登り口、石畳が先へ進む意欲を駆り立ててくれる。下りきった先から間の宿菊川の家並み。

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