間の宿菊川と菊川坂石畳
【2016年7月17日(日)旧東海道 日坂宿→金谷宿】
小夜の中山を越えれば菊川、山間を流れる同名の菊川を跨いで東海道筋に町家が軒を連ね、間の宿として往来する旅人で賑わった。菊川は近世東海道では宿駅になることは無かったのだが、中世以前は菊川宿と称した宿駅で、鎌倉期には源頼朝が上洛の途次に宿泊をしている。承久3年(1221年)に起きた承久の乱で、鎌倉幕府方に敗れ捕縛されたれる後鳥羽上皇方の中御門中納言藤原宗行は、鎌倉に護送の途次で菊川に宿泊し、宿の柱に「昔南陽県菊水 汲下流而延齢 今東海道菊河 宿西岸而失命」という辞世の漢詩を書き残したという。それから110年後の元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕を企んだ元弘の変で、首謀者の廷臣日野俊基は捕らえられ、鎌倉へ護送の途次に菊川を通り、宗行の故事に追懐して一首の歌を詠み残した。
いにしへも かかるためしを 菊川の おなじ流れに 身をやしづめん
東海道宿村大概帳に書かれる菊川は次の通り。
「下菊川村矢根鍛冶有之、此所立場にて餅水飴を商ふ、此所之名物也」
矢根(やのね)鍛冶とは矢尻を作る職人のことで、菊川には硬くて鋭利な矢尻を作る優秀な鍛冶がいることで知られ、江戸時代初期より五條才兵衛家が菊川で矢根鍛冶を生業にしていたが、元禄年間に断絶。跡を清次郎という者が継ぎ”五條鍛冶”の名を残したという。「此所之名物也」と書かれる餅水飴は”飴の餅”とも呼ばれ、小さくちぎり平たく丸めた搗き餅を焼き、竹の皮にその焼き餅五個並べ水飴を添えて客に出したという。近いうちに元祖扇屋で買った子育飴を使って飴水餅を再現してみたい。

箭置坂(青木坂)を下りきったところで横に折れ、四郡(よこおり)橋を渡って間の宿菊川へ。

箭置坂(青木坂)上り口より坂上方向を望む。少しだけ石畳が復元されている。

旧東海道筋の家並みは静かな佇まい。

宗行卿詩碑と日野俊基歌碑。生きた時代は違えど鎌倉幕府の倒幕を企んだ藤原宗行と日野俊基、両者ともここで死を前にし、無念の思いで眠れぬ夜を過ごしたのだろう。

菊川由来の石。昔、付近の川から菊花紋の石が数多く出たことから川は菊川と名付けられ、地名の由来にもなったという。

菊川の中心部、旧東海筋に残る字は”町”と言う。かつて写真右手前から塗師屋房吉、桶屋直吉と続き、その隣りに掛川藩藩医戸塚順伯の屋敷があった。順伯の屋敷は現存しないが、生活用水や投薬用に使っていたとされる井戸を残しているらしい。渇水期にも水を満々と湛え、覗くと乳白色に濁って見えたことから柳井戸と呼ばれたという。乳白色=柳というのが腑に落ちないが、猫柳であれば合点がいく。

現地設置の町割り図によれば井村製茶の場所が菊川本陣跡らしい。菊川は近世東海道で宿駅ではなかったので茶屋本陣だったと思われる。

因みにこれが現地設置の菊川の町割り図。3~5代前の人名だという。本陣の他に問屋場や脇本陣の記載も見られ、正式な宿場ではなかったが、それなりの機能は備えていたようだ。

菊川の集落を分断して流れる菊川。そこに架かるのが高麗橋で、昔は菊川橋と称する土橋だった。菊川から東側の字は”川向”。

菊川の辻。三差路の分岐点に岩松寺への道を示す道標がある。岩松寺は遠江三十三ヶ所の二十五番所。

菊川の辻の道標。上部を復元して付け足している。「みぎ 二十五ばん道 下菊川村」と刻む。

菊川坂の上り口に。ここから石畳の上り坂がはじまる。

菊川坂上り口付近、民家の水溜めにて。オタマジャクシがいっぱい。

オタマジャクシに混じってマツモムシの姿も。オタマジャクシを獲物に狙っているのだろう。

石畳の菊川坂を少し登って振り返り。

菊川坂石畳と菊川の町並み。

菊川坂旧道。

菊川の上り口から約160mは江戸時代後期に敷かれた石畳。

江戸時代後期の石畳は上に見える解説板のところまで。その先は平成13年(2001年)に復元された石畳が続く。

菊川坂の復元石畳。

路傍に石畳復元事業協力者の芳名板を設置する。

アスファルトの舗装路に並行して石畳が敷かれる。

往時を偲ぶ菊川坂石畳。

石畳はこの先で終わり。菊川坂上は諏訪原城跡。

諏訪原城跡の南側を通る旧東海道。

二の曲輪大手馬出(写真右手)と空堀。諏訪原城は天正元年(1573年)、武田勝頼が遠江侵攻の拠点として馬場信房に命じて築かせた山城。戦国時代に築かれた縄張りの遺構をよく残している。特に空堀の深さは圧巻。

二の曲輪大手馬出に鎮座する諏訪神社。城名の由来となった武田家の守護神を祀る。

二の曲輪大手馬出と二の曲輪を隔てる外堀。堀底にはカンカン井戸が残る。

カンカン井戸。石組みされた古そうな井戸、何ゆえ”カンカン”なのかが分からない。

諏訪原城の前線、大手曲輪。ほぼ跡地は茶畑に化す。

茶畑の中に佇む今福浄閑戦死墓塚の碑。

二の曲輪中馬出。武田流築城術の特徴といわれる半円形の丸馬出と空堀の遺構をよく残す。

中馬出から二の曲輪を繋ぐ二の曲輪虎口。

諏訪原城二の曲輪。

二の曲輪と本曲輪を繋ぐ本曲輪虎口。

本曲輪と二の曲輪を隔てる内堀。その深さには圧巻、見応えあり。

本曲輪虎口。奥が二の曲輪。発掘調査から薬医門を設けていたと考えられている。

最重要区画の本曲輪。

本曲輪より金谷市街と大井川を望む。

諏訪原城跡の旧東海道沿いにある”アルム珈琲店”。佇まいに旧街道の雰囲気があっていい。ちょっと休憩に寄りたいところだが、日没まで時間がない。先を急ごう。
小夜の中山を越えれば菊川、山間を流れる同名の菊川を跨いで東海道筋に町家が軒を連ね、間の宿として往来する旅人で賑わった。菊川は近世東海道では宿駅になることは無かったのだが、中世以前は菊川宿と称した宿駅で、鎌倉期には源頼朝が上洛の途次に宿泊をしている。承久3年(1221年)に起きた承久の乱で、鎌倉幕府方に敗れ捕縛されたれる後鳥羽上皇方の中御門中納言藤原宗行は、鎌倉に護送の途次で菊川に宿泊し、宿の柱に「昔南陽県菊水 汲下流而延齢 今東海道菊河 宿西岸而失命」という辞世の漢詩を書き残したという。それから110年後の元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕を企んだ元弘の変で、首謀者の廷臣日野俊基は捕らえられ、鎌倉へ護送の途次に菊川を通り、宗行の故事に追懐して一首の歌を詠み残した。
いにしへも かかるためしを 菊川の おなじ流れに 身をやしづめん
東海道宿村大概帳に書かれる菊川は次の通り。
「下菊川村矢根鍛冶有之、此所立場にて餅水飴を商ふ、此所之名物也」
矢根(やのね)鍛冶とは矢尻を作る職人のことで、菊川には硬くて鋭利な矢尻を作る優秀な鍛冶がいることで知られ、江戸時代初期より五條才兵衛家が菊川で矢根鍛冶を生業にしていたが、元禄年間に断絶。跡を清次郎という者が継ぎ”五條鍛冶”の名を残したという。「此所之名物也」と書かれる餅水飴は”飴の餅”とも呼ばれ、小さくちぎり平たく丸めた搗き餅を焼き、竹の皮にその焼き餅五個並べ水飴を添えて客に出したという。近いうちに元祖扇屋で買った子育飴を使って飴水餅を再現してみたい。

箭置坂(青木坂)を下りきったところで横に折れ、四郡(よこおり)橋を渡って間の宿菊川へ。

箭置坂(青木坂)上り口より坂上方向を望む。少しだけ石畳が復元されている。

旧東海道筋の家並みは静かな佇まい。

宗行卿詩碑と日野俊基歌碑。生きた時代は違えど鎌倉幕府の倒幕を企んだ藤原宗行と日野俊基、両者ともここで死を前にし、無念の思いで眠れぬ夜を過ごしたのだろう。

菊川由来の石。昔、付近の川から菊花紋の石が数多く出たことから川は菊川と名付けられ、地名の由来にもなったという。

菊川の中心部、旧東海筋に残る字は”町”と言う。かつて写真右手前から塗師屋房吉、桶屋直吉と続き、その隣りに掛川藩藩医戸塚順伯の屋敷があった。順伯の屋敷は現存しないが、生活用水や投薬用に使っていたとされる井戸を残しているらしい。渇水期にも水を満々と湛え、覗くと乳白色に濁って見えたことから柳井戸と呼ばれたという。乳白色=柳というのが腑に落ちないが、猫柳であれば合点がいく。

現地設置の町割り図によれば井村製茶の場所が菊川本陣跡らしい。菊川は近世東海道で宿駅ではなかったので茶屋本陣だったと思われる。

因みにこれが現地設置の菊川の町割り図。3~5代前の人名だという。本陣の他に問屋場や脇本陣の記載も見られ、正式な宿場ではなかったが、それなりの機能は備えていたようだ。

菊川の集落を分断して流れる菊川。そこに架かるのが高麗橋で、昔は菊川橋と称する土橋だった。菊川から東側の字は”川向”。

菊川の辻。三差路の分岐点に岩松寺への道を示す道標がある。岩松寺は遠江三十三ヶ所の二十五番所。

菊川の辻の道標。上部を復元して付け足している。「みぎ 二十五ばん道 下菊川村」と刻む。

菊川坂の上り口に。ここから石畳の上り坂がはじまる。

菊川坂上り口付近、民家の水溜めにて。オタマジャクシがいっぱい。

オタマジャクシに混じってマツモムシの姿も。オタマジャクシを獲物に狙っているのだろう。

石畳の菊川坂を少し登って振り返り。

菊川坂石畳と菊川の町並み。

菊川坂旧道。

菊川の上り口から約160mは江戸時代後期に敷かれた石畳。

江戸時代後期の石畳は上に見える解説板のところまで。その先は平成13年(2001年)に復元された石畳が続く。

菊川坂の復元石畳。

路傍に石畳復元事業協力者の芳名板を設置する。

アスファルトの舗装路に並行して石畳が敷かれる。

往時を偲ぶ菊川坂石畳。

石畳はこの先で終わり。菊川坂上は諏訪原城跡。

諏訪原城跡の南側を通る旧東海道。

二の曲輪大手馬出(写真右手)と空堀。諏訪原城は天正元年(1573年)、武田勝頼が遠江侵攻の拠点として馬場信房に命じて築かせた山城。戦国時代に築かれた縄張りの遺構をよく残している。特に空堀の深さは圧巻。

二の曲輪大手馬出に鎮座する諏訪神社。城名の由来となった武田家の守護神を祀る。

二の曲輪大手馬出と二の曲輪を隔てる外堀。堀底にはカンカン井戸が残る。

カンカン井戸。石組みされた古そうな井戸、何ゆえ”カンカン”なのかが分からない。

諏訪原城の前線、大手曲輪。ほぼ跡地は茶畑に化す。

茶畑の中に佇む今福浄閑戦死墓塚の碑。

二の曲輪中馬出。武田流築城術の特徴といわれる半円形の丸馬出と空堀の遺構をよく残す。

中馬出から二の曲輪を繋ぐ二の曲輪虎口。

諏訪原城二の曲輪。

二の曲輪と本曲輪を繋ぐ本曲輪虎口。

本曲輪と二の曲輪を隔てる内堀。その深さには圧巻、見応えあり。

本曲輪虎口。奥が二の曲輪。発掘調査から薬医門を設けていたと考えられている。

最重要区画の本曲輪。

本曲輪より金谷市街と大井川を望む。

諏訪原城跡の旧東海道沿いにある”アルム珈琲店”。佇まいに旧街道の雰囲気があっていい。ちょっと休憩に寄りたいところだが、日没まで時間がない。先を急ごう。

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