島田宿
【旧東海道歩き 第24日目】ホテルセレクトイン島田駅前→島田宿→藤枝宿→上伝馬停留所
【2016年10月9日(日)旧東海道 島田宿】

東海道五十三次之内嶋田 大井川駿岸
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「島田宿」より引用
島田大祭御本祭当日の10月9日、前日に行われた御夕祭の余韻を残しつつも島田宿は静かに雨模様の朝を迎える。人もまばらな宿内を散策しつつ、11:40正午から始まる大名行列を見物してから次の藤枝宿へ向かうことに。それまで時間が空いたので、午前中は世界一長い木造歩道橋の蓬莱橋を渡ってみることにした。蓬莱橋については追記に書くとして、まずは島田宿から。
島田宿は江戸日本橋から東海道五十三次を23宿目、京都三条大橋から31宿目、駿河国の西側入口にあたる宿場。大井川が増水で川止めともなると、行き場を失った京方面への旅人は島田宿に留まるしかなく、旅籠や遊興場はそんな旅人相手に随分と繁盛したらしい。天保14年(1843年)当時、町並み長さ東西9町40間(約1053m)、人口6727人、家数1461軒、うち本陣3、脇本陣0、旅籠屋48軒。本陣は村松九郎次家(上本陣)、大久保新右衛門家(中本陣)、置塩藤四郎家(下本陣)の三家が務めた。名物は小饅頭。江戸時代に若い娘たちに人気の髪結い”島田髷”を考案した遊女”虎御前”の出身地と伝わり、島田髷発祥の地とされる。島田髷の派生から更に発展したのが”文金高島田”、今も神前結婚式で新婦の髪型に見られ、現代人には最もなじみ深い日本髪だろう。毎年9月の第3日曜日に島田髷祭りが行われている。

まずは早朝の大井神社に参拝。

大奴と鹿島踊三番叟の銅像。3年に1度しか開催されない島田大祭だけに、実際の踊りを見ることができたのは、つくづくよかった。

大井神社境内にて。

境内にある神橋。石の太鼓橋は神輿が渡る神橋で、正徳3年(1713年)造営。両脇の平橋は安政3年(1856年)川越連中が奉納した。

安産祈願に使用済の帯を奉納した帯塚。

境内入口前は宿西入口の見付跡。街道南側(写真正面の民家辺り)に枡形が設けられていた。

西見付跡の南側にある正覚寺。

正覚寺より本通りに向かって延びる正覚寺小路。左手民家が枡形跡。

大通りと駅西通りの交差点。駅西通りは面影なないが宮小路と半十郎小路の名残。南西角に江戸後期に島田随一の素封家、桑原家があった。四代目の伊右衛門宣之は画人であり、隠居後に地誌「駿河記」を著す。

大村屋酒造場。屋根上には鬼がでんと構える。”若竹鬼ころし”、”おんな泣かせ”が代表銘柄。

前日の賑わいが嘘のように静かな朝を迎える。

ブルーシートに覆われる屋台。何番街の屋台だろうか。

塚本如舟屋敷跡(現 静岡銀行島田支店)。塚本家は代々孫兵衛を名のり、元禄9年(1696年)から川庄屋を任命され、六代目からは問屋を務めるなど、代々宿役人を務めてきた家。三代目は”如舟”と号して俳諧を嗜み、松尾芭蕉と親交があった。元禄4年(1691年)と元禄7年(1694年)に芭蕉がここに宿泊している。

塚本家の向かいには、村松九郎次家(上本陣)と大久保新右衛門家(中本陣)が並び建っていた。

中本陣・大久保新右衛門家跡の一角、天野屋呉服店。

下本陣・置塩藤四郎家跡。

問屋場跡(写真左手)。現在はマンション建設中。

林入寺に向かって延びる林入寺小路。宿場時代の建物が残っていない島田宿では、こういった小路に往時の面影を見るしかない。

島田大祭の案内ポスター。

昨日、大奴のお門入りが行われた片岡医院。

島田宿一里塚跡。両塚とも現存しないが、跡地に解説板を置く。江戸日本橋から52里目(約204km)、京三条大橋からは63番目で実測約308km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。

ここで島田宿をいったん離れ、蓬莱橋へ向かう。
【2016年10月9日(日)旧東海道 島田宿】

東海道五十三次之内嶋田 大井川駿岸
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「島田宿」より引用
島田大祭御本祭当日の10月9日、前日に行われた御夕祭の余韻を残しつつも島田宿は静かに雨模様の朝を迎える。人もまばらな宿内を散策しつつ、11:40正午から始まる大名行列を見物してから次の藤枝宿へ向かうことに。それまで時間が空いたので、午前中は世界一長い木造歩道橋の蓬莱橋を渡ってみることにした。蓬莱橋については追記に書くとして、まずは島田宿から。
島田宿は江戸日本橋から東海道五十三次を23宿目、京都三条大橋から31宿目、駿河国の西側入口にあたる宿場。大井川が増水で川止めともなると、行き場を失った京方面への旅人は島田宿に留まるしかなく、旅籠や遊興場はそんな旅人相手に随分と繁盛したらしい。天保14年(1843年)当時、町並み長さ東西9町40間(約1053m)、人口6727人、家数1461軒、うち本陣3、脇本陣0、旅籠屋48軒。本陣は村松九郎次家(上本陣)、大久保新右衛門家(中本陣)、置塩藤四郎家(下本陣)の三家が務めた。名物は小饅頭。江戸時代に若い娘たちに人気の髪結い”島田髷”を考案した遊女”虎御前”の出身地と伝わり、島田髷発祥の地とされる。島田髷の派生から更に発展したのが”文金高島田”、今も神前結婚式で新婦の髪型に見られ、現代人には最もなじみ深い日本髪だろう。毎年9月の第3日曜日に島田髷祭りが行われている。

まずは早朝の大井神社に参拝。

大奴と鹿島踊三番叟の銅像。3年に1度しか開催されない島田大祭だけに、実際の踊りを見ることができたのは、つくづくよかった。

大井神社境内にて。

境内にある神橋。石の太鼓橋は神輿が渡る神橋で、正徳3年(1713年)造営。両脇の平橋は安政3年(1856年)川越連中が奉納した。

安産祈願に使用済の帯を奉納した帯塚。

境内入口前は宿西入口の見付跡。街道南側(写真正面の民家辺り)に枡形が設けられていた。

西見付跡の南側にある正覚寺。

正覚寺より本通りに向かって延びる正覚寺小路。左手民家が枡形跡。

大通りと駅西通りの交差点。駅西通りは面影なないが宮小路と半十郎小路の名残。南西角に江戸後期に島田随一の素封家、桑原家があった。四代目の伊右衛門宣之は画人であり、隠居後に地誌「駿河記」を著す。

大村屋酒造場。屋根上には鬼がでんと構える。”若竹鬼ころし”、”おんな泣かせ”が代表銘柄。

前日の賑わいが嘘のように静かな朝を迎える。

ブルーシートに覆われる屋台。何番街の屋台だろうか。

塚本如舟屋敷跡(現 静岡銀行島田支店)。塚本家は代々孫兵衛を名のり、元禄9年(1696年)から川庄屋を任命され、六代目からは問屋を務めるなど、代々宿役人を務めてきた家。三代目は”如舟”と号して俳諧を嗜み、松尾芭蕉と親交があった。元禄4年(1691年)と元禄7年(1694年)に芭蕉がここに宿泊している。

塚本家の向かいには、村松九郎次家(上本陣)と大久保新右衛門家(中本陣)が並び建っていた。

中本陣・大久保新右衛門家跡の一角、天野屋呉服店。

下本陣・置塩藤四郎家跡。

問屋場跡(写真左手)。現在はマンション建設中。

林入寺に向かって延びる林入寺小路。宿場時代の建物が残っていない島田宿では、こういった小路に往時の面影を見るしかない。

島田大祭の案内ポスター。

昨日、大奴のお門入りが行われた片岡医院。

島田宿一里塚跡。両塚とも現存しないが、跡地に解説板を置く。江戸日本橋から52里目(約204km)、京三条大橋からは63番目で実測約308km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。

ここで島田宿をいったん離れ、蓬莱橋へ向かう。
明治12年(1879年)大井川に架橋された蓬莱橋は、一部の橋桁がコンクリート製になりながらも、架橋当時の姿を残す木造歩道橋。その全長が897.4mにも及び、世界一長い木造歩道橋としてギネス認定されるほど。島田市を代表する観光スポットであり、最近ではNHKの朝ドラ”とと姉ちゃん”のロケ地にもなった。

島田宿から浜小路に入り、とぼとぼ歩いて蓬莱橋へ。

延々と続く木造橋は圧巻の長さ。凄いの一言。

通行料金100円を支払って蓬莱橋を渡ろう。

大井川の上流方向、約3.5km先に大井川の川越し場跡がある。

蓬莱橋を渡り切れば島台があり、その入口で蓬莱吉祥天女が迎える。

徐福が不老不死の薬を探しに来たとの伝説がある島台。多くの石仏をはじめ、長寿の鐘が設けられている。

島台にいた大ミミズ。長さ40cmはありそうな大物。幼少期にミミズ採りを日課にしていた私でも、このサイズは見たことがない。

捕まえると半分くらいに縮んだ。

島台より蓬莱橋を望む。

島台から”七福神の小径”を進み牧之原大茶園へ向かおう。

”七福神の小径”だけに沿道の所々に七福神像を祀る。写真は福禄寿尊天。

”七福神の小径”はそれなりの山道。

中條金之助景昭の像。この人は幕臣の精鋭隊(後の新番組)隊長で、大政奉還の後、徳川慶喜に従い駿府へ移住、後に牧之原の開拓に従事した。今に見る大茶園の貢献者なのである。

牧之原大茶園の壮観な眺め。静岡県の茶生産量の約4割を栽培する大茶園で、全国にその名を知られる”やぶきた茶”はここで生産されている。蓬莱橋はこの大茶園に従事する人たちの便を図るため、明治12年(1879年)に架橋された。

島台に戻り蓬莱橋を望む。天候が回復し、橋を往来する人が増えている。

橋を渡っているとき、川下に目を向けると。

富士山だ!ありがたや、ありがたや。

橋下に目を向ければカモ軍団。

蓬莱橋北袂。戻ってきました。

ススキが秋の到来を感じさせる。

多くの観光客で賑わう蓬莱橋の料金所。

最後に世界一の木造歩道橋を目に焼き付けて。

島田宿から浜小路に入り、とぼとぼ歩いて蓬莱橋へ。

延々と続く木造橋は圧巻の長さ。凄いの一言。

通行料金100円を支払って蓬莱橋を渡ろう。

大井川の上流方向、約3.5km先に大井川の川越し場跡がある。

蓬莱橋を渡り切れば島台があり、その入口で蓬莱吉祥天女が迎える。

徐福が不老不死の薬を探しに来たとの伝説がある島台。多くの石仏をはじめ、長寿の鐘が設けられている。

島台にいた大ミミズ。長さ40cmはありそうな大物。幼少期にミミズ採りを日課にしていた私でも、このサイズは見たことがない。

捕まえると半分くらいに縮んだ。

島台より蓬莱橋を望む。

島台から”七福神の小径”を進み牧之原大茶園へ向かおう。

”七福神の小径”だけに沿道の所々に七福神像を祀る。写真は福禄寿尊天。

”七福神の小径”はそれなりの山道。

中條金之助景昭の像。この人は幕臣の精鋭隊(後の新番組)隊長で、大政奉還の後、徳川慶喜に従い駿府へ移住、後に牧之原の開拓に従事した。今に見る大茶園の貢献者なのである。

牧之原大茶園の壮観な眺め。静岡県の茶生産量の約4割を栽培する大茶園で、全国にその名を知られる”やぶきた茶”はここで生産されている。蓬莱橋はこの大茶園に従事する人たちの便を図るため、明治12年(1879年)に架橋された。

島台に戻り蓬莱橋を望む。天候が回復し、橋を往来する人が増えている。

橋を渡っているとき、川下に目を向けると。

富士山だ!ありがたや、ありがたや。

橋下に目を向ければカモ軍団。

蓬莱橋北袂。戻ってきました。

ススキが秋の到来を感じさせる。

多くの観光客で賑わう蓬莱橋の料金所。

最後に世界一の木造歩道橋を目に焼き付けて。

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