瀬戸の染飯
【2016年10月9日(日)旧東海道 島田宿→藤枝宿】

瀬戸の染飯(土山宿東海道伝馬館にて撮影)
島田宿東見付を出て大津谷川(栃山橋)を渡り、道悦島(栃山)を過ぎれば島田市から藤枝市へ入る。旧東海道両脇に松並木の名残りを見つつ瀬戸橋(東光寺谷川)を渡り、三軒屋(現 藤枝市上青島)の集落に。更に少し歩みを進めれば旧瀬戸(青島)立場に着く。瀬戸には染飯という道中食を旅人相手に出して商う茶屋が多くあり、藤枝宿の名物とされた。染飯は蒸したもち米をクチナシの実で黄色く染め、すり潰したものを小判形にして干し乾かすと出来上がり。東海道名所記には次のように紹介している。
「ここハ、さかなおほし、茶屋あり 瀬戸の染飯ハ、此所の名物なり。そのかたち、小判ほどにして。こハめしに、山梔子をぬりたり、うすきもの也、男 染飯は黄色なりけりたび人はあはぢの瀬戸とここをいふべきと、よミ侍べり。まことに、粟飯ハ黄なるものなれば、かくよみけるにや」
現在は瀬戸の立場跡でこれを食することはできないが、藤枝駅前にある喜久屋という弁当屋があり、染飯を再現して販売している。
喜久屋
http://kikuya-f.co.jp/

島田宿を後にして、本通り(旧東海道)から県道381号に合流。御仮屋町歩道橋下に架かる監物橋。寛永12年(1635年)から田中藩主となった水野監物忠善は志太郡一帯を支配、栃山川(大津谷川)以東の村々の水不足を解消するため、大井川から栃山川にかけて水路を開削して水を引き入れた。村人はその功績を称え水路を監物川と呼び、東海道に架けられた橋を監物橋と名付けたという。

御仮屋町と阿知ケ谷・道悦の境をなす栃山橋と大津谷川。

分離帯に「夢舞台・東海道 道悦島」の道標。

道悦橋西交差点で県道から旧東海道(左直進方向)が分かれる。

阿知ケ谷の旧東海道筋にある栃山バス停。かつて栃山と称した地名の名残り。

阿知ケ谷・道悦に残る旧東海道。この先で再び県道に合流。

阿知ケ谷・道悦を行く県道381号。右手に”魚一”という割烹料理屋がある。

道悦5丁目の県道381号沿いの旧商店。店構えに目が留まったので。

島田市と藤枝市の境。先に松並木が見える。

松並木の裏に現代の茶屋の如くラーメンショップ島田店があり。島田店といってもここは藤枝市なのだが…。

ラーメンショップ前に残る東海道松並木。

一里山交差点で県道を分かれた旧東海道。往時を偲ぶ松並木が続く。

松並木の中に上青島一里塚跡。両塚とも現存せず。

上青島一里塚は江戸日本橋から51里目(約200km)、京三条大橋からは64番目で実測約312km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。

上青島旧東海道筋に松並木の名残りを。

瀬戸橋西(三軒屋)バス停。

東光寺谷川に架かる瀬戸橋。かつて瀬戸橋東詰の街道筋は、三軒屋と呼ばれる集落を形成していた。

東光寺谷川と三軒屋の八幡宮。

喜久醉の酒樽を積み杉玉を吊るす青島酒造。

青島酒造は江戸時代中期の創業、ここ青島の地で長らく酒造りを続けてきた老舗。「喜久醉」が代表銘柄。

青島酒造の旧東海道を挟んで斜向かい、青島酒店。

上・下青島に残る松並木。

松並木の根元には土盛りの名残も。

明治7年(1874年)青島地区に開校した育生舎跡。上青島村の庄屋、小沢家の所有地だった。

下青島の旧東海道筋にある染井茶屋蹟の標石と解説板。

旧瀬戸(青島)立場。往時に北側は瀬戸山という丘陵地で、その山裾を東海道が通り、沿道に染飯を出す茶屋が軒を連ねていた。現在の瀬戸山(写真右手)は開削されて消滅、茶屋を偲ぶような建物も残っておらず、往時の景観とは随分と異にしてしまったようだ。今はここで染飯を食べることはできないが、藤枝駅前にある喜久屋という弁当店で染飯を再現して販売しており、今も染飯の味だけは守られている。

下青島に残る千貫堤。寛永12年(1635年)田中藩主の水野監物忠善は、大井川の水害から領内を守るため、瀬戸山から南方の藤五郎山(現在は消滅)を挟み、本宮山(正泉寺)にかけて高さ3.6m、幅2.9mの堤防を築かせた。その築造費用が一千貫かかったことが、千貫堤と呼ばれる所以。往時に約360mの長さがあったが、現在は約40mを残すのみ。

千貫堤上にある千貫堤・瀬戸染飯伝承館。瀬戸立場や千貫堤に関する展示をしており、旧東海道歩きの際には是非とも立ち寄ってほしいところ。

旧瀬戸立場の東外れ、延命地蔵堂と瀬戸古蹟群供養塔碑。延命地蔵堂はかつてこの辺りにあった無縁寺の名残りと思われる。

旧瀬戸立場北側の瀬戸山は均されてカインズモールの敷地に。

旧瀬戸立場を出れば下青島のちょっとした松並木。

下青島にある古東海道の追分。写真直進の小路が藤枝方向の古東海道。中世の瀬戸新屋や水上辺りは湿地帯で、水上池(現在は消滅)という大きな池があり、当時の東海道は島田から瀬戸山を越え、水上池を避けて東へ大きく迂回するルートだった。江戸時代に干拓が進んで東海道が瀬戸新屋を通るようになり、新旧の東海道が分かれるここを追分と呼ぶようになったという。

六地蔵尊を安置する鏡池堂。駿河国二十四番札所第九番に指定される古くからの霊場。ここの六地蔵尊は鏡ヶ池(現在は消滅)から出現、承安3年(1171年)鏡ヶ池の畔に建てられた草庵に祀られたのがはじまりという。それから約500年後の正徳3年(1713年)、この地を治める大草太郎左衛門が六地蔵尊に祈願して世継ぎを授かり、感謝の意から「鏡池堂六地蔵尊」と名付けた堂宇を建築して寄進、六地蔵尊を移して奉安したと伝わる。

境内には新旧の六地蔵尊を彫る石仏が見られる。

瀬戸新屋に残る松並木。

道の両側に松並木が残っている所は、道幅も江戸時代と変わらないはず。

瀬戸新屋にある田中藩領牓示石蹟。かつての瀬戸新屋村は田中藩領と掛川藩領が入り組み、その境界を示す「従是西田中藩領」榜示石がここに設けられていた。

南新屋の旧東海道沿いに鎮座する津島神社。

南新屋の古東海道追分。下青島で分かれた古東海道は、南新屋会館(東泉寺跡)の南側を通り、この辺りで合流していたようだ。

南新屋を行く旧東海道。

青木交差点(青木五叉路)。

青木交差点付近の名残松。

岡野繁蔵出生地の標石。この御方は明治27年(1889年)青島村(明治22年に上青島村・下青島村・南新屋村等の周辺11ヶ村が合併して発足)に生まれ、21才でスマトラ島に渡り雑貨貿易商として成功、スラバヤに千代田百貨店を経営した。太平洋戦争でやむなく日本へ引き揚げることになるが、「裸一貫から南洋のデパート王」へ登り詰めたここ青島の偉人。

内瀬戸谷川に架かる稲川橋。

稲川橋を渡れば志太の町並み。

”しずおか信用金庫志太支店”前を行く旧東海道。

志太3丁目の旧東海道沿いにある八百屋本陣。
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八百屋本陣隣りの民家敷地に為善館跡の標石と解説板がある。為善館は明治6年(1873年)に志太村に創設された学校。現在の青島小学校(藤枝市下青島)の前身。

勝草橋南袂にある志太一里塚跡。江戸日本橋から50里目(約196km)、京三条大橋からは65番目で実測約316km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。

志太一里塚は両塚とも現存しないが、その跡地を示す標石と共に、常夜燈と秋葉神社が設けられている。

勝草橋を渡れば藤枝宿に。

瀬戸の染飯(土山宿東海道伝馬館にて撮影)
島田宿東見付を出て大津谷川(栃山橋)を渡り、道悦島(栃山)を過ぎれば島田市から藤枝市へ入る。旧東海道両脇に松並木の名残りを見つつ瀬戸橋(東光寺谷川)を渡り、三軒屋(現 藤枝市上青島)の集落に。更に少し歩みを進めれば旧瀬戸(青島)立場に着く。瀬戸には染飯という道中食を旅人相手に出して商う茶屋が多くあり、藤枝宿の名物とされた。染飯は蒸したもち米をクチナシの実で黄色く染め、すり潰したものを小判形にして干し乾かすと出来上がり。東海道名所記には次のように紹介している。
「ここハ、さかなおほし、茶屋あり 瀬戸の染飯ハ、此所の名物なり。そのかたち、小判ほどにして。こハめしに、山梔子をぬりたり、うすきもの也、男 染飯は黄色なりけりたび人はあはぢの瀬戸とここをいふべきと、よミ侍べり。まことに、粟飯ハ黄なるものなれば、かくよみけるにや」
現在は瀬戸の立場跡でこれを食することはできないが、藤枝駅前にある喜久屋という弁当屋があり、染飯を再現して販売している。
喜久屋
http://kikuya-f.co.jp/

島田宿を後にして、本通り(旧東海道)から県道381号に合流。御仮屋町歩道橋下に架かる監物橋。寛永12年(1635年)から田中藩主となった水野監物忠善は志太郡一帯を支配、栃山川(大津谷川)以東の村々の水不足を解消するため、大井川から栃山川にかけて水路を開削して水を引き入れた。村人はその功績を称え水路を監物川と呼び、東海道に架けられた橋を監物橋と名付けたという。

御仮屋町と阿知ケ谷・道悦の境をなす栃山橋と大津谷川。

分離帯に「夢舞台・東海道 道悦島」の道標。

道悦橋西交差点で県道から旧東海道(左直進方向)が分かれる。

阿知ケ谷の旧東海道筋にある栃山バス停。かつて栃山と称した地名の名残り。

阿知ケ谷・道悦に残る旧東海道。この先で再び県道に合流。

阿知ケ谷・道悦を行く県道381号。右手に”魚一”という割烹料理屋がある。

道悦5丁目の県道381号沿いの旧商店。店構えに目が留まったので。

島田市と藤枝市の境。先に松並木が見える。

松並木の裏に現代の茶屋の如くラーメンショップ島田店があり。島田店といってもここは藤枝市なのだが…。

ラーメンショップ前に残る東海道松並木。

一里山交差点で県道を分かれた旧東海道。往時を偲ぶ松並木が続く。

松並木の中に上青島一里塚跡。両塚とも現存せず。

上青島一里塚は江戸日本橋から51里目(約200km)、京三条大橋からは64番目で実測約312km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。

上青島旧東海道筋に松並木の名残りを。

瀬戸橋西(三軒屋)バス停。

東光寺谷川に架かる瀬戸橋。かつて瀬戸橋東詰の街道筋は、三軒屋と呼ばれる集落を形成していた。

東光寺谷川と三軒屋の八幡宮。

喜久醉の酒樽を積み杉玉を吊るす青島酒造。

青島酒造は江戸時代中期の創業、ここ青島の地で長らく酒造りを続けてきた老舗。「喜久醉」が代表銘柄。

青島酒造の旧東海道を挟んで斜向かい、青島酒店。

上・下青島に残る松並木。

松並木の根元には土盛りの名残も。

明治7年(1874年)青島地区に開校した育生舎跡。上青島村の庄屋、小沢家の所有地だった。

下青島の旧東海道筋にある染井茶屋蹟の標石と解説板。

旧瀬戸(青島)立場。往時に北側は瀬戸山という丘陵地で、その山裾を東海道が通り、沿道に染飯を出す茶屋が軒を連ねていた。現在の瀬戸山(写真右手)は開削されて消滅、茶屋を偲ぶような建物も残っておらず、往時の景観とは随分と異にしてしまったようだ。今はここで染飯を食べることはできないが、藤枝駅前にある喜久屋という弁当店で染飯を再現して販売しており、今も染飯の味だけは守られている。

下青島に残る千貫堤。寛永12年(1635年)田中藩主の水野監物忠善は、大井川の水害から領内を守るため、瀬戸山から南方の藤五郎山(現在は消滅)を挟み、本宮山(正泉寺)にかけて高さ3.6m、幅2.9mの堤防を築かせた。その築造費用が一千貫かかったことが、千貫堤と呼ばれる所以。往時に約360mの長さがあったが、現在は約40mを残すのみ。

千貫堤上にある千貫堤・瀬戸染飯伝承館。瀬戸立場や千貫堤に関する展示をしており、旧東海道歩きの際には是非とも立ち寄ってほしいところ。

旧瀬戸立場の東外れ、延命地蔵堂と瀬戸古蹟群供養塔碑。延命地蔵堂はかつてこの辺りにあった無縁寺の名残りと思われる。

旧瀬戸立場北側の瀬戸山は均されてカインズモールの敷地に。

旧瀬戸立場を出れば下青島のちょっとした松並木。

下青島にある古東海道の追分。写真直進の小路が藤枝方向の古東海道。中世の瀬戸新屋や水上辺りは湿地帯で、水上池(現在は消滅)という大きな池があり、当時の東海道は島田から瀬戸山を越え、水上池を避けて東へ大きく迂回するルートだった。江戸時代に干拓が進んで東海道が瀬戸新屋を通るようになり、新旧の東海道が分かれるここを追分と呼ぶようになったという。

六地蔵尊を安置する鏡池堂。駿河国二十四番札所第九番に指定される古くからの霊場。ここの六地蔵尊は鏡ヶ池(現在は消滅)から出現、承安3年(1171年)鏡ヶ池の畔に建てられた草庵に祀られたのがはじまりという。それから約500年後の正徳3年(1713年)、この地を治める大草太郎左衛門が六地蔵尊に祈願して世継ぎを授かり、感謝の意から「鏡池堂六地蔵尊」と名付けた堂宇を建築して寄進、六地蔵尊を移して奉安したと伝わる。

境内には新旧の六地蔵尊を彫る石仏が見られる。

瀬戸新屋に残る松並木。

道の両側に松並木が残っている所は、道幅も江戸時代と変わらないはず。

瀬戸新屋にある田中藩領牓示石蹟。かつての瀬戸新屋村は田中藩領と掛川藩領が入り組み、その境界を示す「従是西田中藩領」榜示石がここに設けられていた。

南新屋の旧東海道沿いに鎮座する津島神社。

南新屋の古東海道追分。下青島で分かれた古東海道は、南新屋会館(東泉寺跡)の南側を通り、この辺りで合流していたようだ。

南新屋を行く旧東海道。

青木交差点(青木五叉路)。

青木交差点付近の名残松。

岡野繁蔵出生地の標石。この御方は明治27年(1889年)青島村(明治22年に上青島村・下青島村・南新屋村等の周辺11ヶ村が合併して発足)に生まれ、21才でスマトラ島に渡り雑貨貿易商として成功、スラバヤに千代田百貨店を経営した。太平洋戦争でやむなく日本へ引き揚げることになるが、「裸一貫から南洋のデパート王」へ登り詰めたここ青島の偉人。

内瀬戸谷川に架かる稲川橋。

稲川橋を渡れば志太の町並み。

”しずおか信用金庫志太支店”前を行く旧東海道。

志太3丁目の旧東海道沿いにある八百屋本陣。
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八百屋本陣隣りの民家敷地に為善館跡の標石と解説板がある。為善館は明治6年(1873年)に志太村に創設された学校。現在の青島小学校(藤枝市下青島)の前身。

勝草橋南袂にある志太一里塚跡。江戸日本橋から50里目(約196km)、京三条大橋からは65番目で実測約316km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。

志太一里塚は両塚とも現存しないが、その跡地を示す標石と共に、常夜燈と秋葉神社が設けられている。

勝草橋を渡れば藤枝宿に。

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