藤枝宿
【2016年10月9日(日)旧東海道 藤枝宿】

東海道五十三次之内藤枝 人馬継立
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「藤枝宿」より引用
志太から瀬戸川を渡れば藤枝宿で、今は勝草橋で難なく渡河できる。江戸時代には仮橋を架けることもあったようだが、川越人足による”徒歩渡し”で旅人を渡河させており、瀬戸川両岸に位置する藤枝側の河原町、島田側の志太村・稲川村には川越人足15人が常備されていた。大井川には遠く及ばず川幅も狭くて水深も浅かったが、それでも大井川と同じく川の水量で川越し賃銭が定められ、最も高い乳通水で32文(約960円)だったとか。大井川の川越し賃で最も安い股通しの48文(約1440円)より安く、それほど難なく渡ることができたことが想像できる。そのため自力で歩いて渡る旅人も多かったようで、川越人足は目溢ししていたらしい。
藤枝宿は江戸日本橋から東海道五十三次を22宿目、京都三条大橋から32宿目。水守・市部・五十海(いかるみ)・若王子(にゃくおうじ)・鬼岩寺・益津・長楽寺・郡(こおり)村の8ヶ村の各一部から成り、宿西側入口の川原町から上伝馬町・木町・吹屋町・鍛冶町・長楽寺町・白子町・下伝馬町・左車町の9ヶ町で構成。川原・木町・吹屋町・鍛冶町は上伝馬町、長楽寺町・左車町は下伝馬町に属し、上・下伝馬町それぞれに問屋場を置いて、上伝馬町が江戸方への下りの荷物、下伝馬町では京方への上りの荷物を継立した。長楽寺町と下伝馬町の間にあった白子町は、本能寺の変の際に徳川家康の危機を救った伊勢国白子の小川孫三が移り住んだことに由来し、家康から地子・諸役御免の朱印状を与えられたことで、人馬継立等の諸役が免除される町だった。天保14年(1843年)当時、宿内町並み東西19町12間(約2093m)、人口4425人、家数1061軒、うち本陣2、脇本陣0、旅籠屋37軒。下伝馬町に田中城の大手口があり、城下町のとして側面も持っていた。名物は染飯と鮮魚料理、名産品に”藤枝だるま”。

藤枝宿西外れを流れる瀬戸川。かつては川越人足による徒歩渡しで渡河していたが、見ての通りの川幅と水量なので、自力で徒歩渡りする旅人も多かった。

勝草橋東詰。この先は藤枝宿の旧川原町。町長さ54間(約94m)の短い町だったが、宿入口には西木戸門が設けられ、川庄屋や川会所があった。おそらく川越人足が待機する宿もあったはず。

サッカー最中の池田屋辺りが川原町と上伝馬町の境だったと思われる。ちなみに池田屋はサッカーボール型の最中を製造販売していた和菓子屋だが、訪れたときにはシャッターが閉められていた。

旧上伝馬町に入り振り返って旧川原町方面。

正定寺の境内で見事な枝ぶりを見せる本願の松。

焼津信用金庫とビジネスホテル富岡屋がある交差点。ここは上伝馬町の東海道から瀬戸谷街道が分岐していた追分。北西方向に延びる瀬戸谷街道筋は旧木町にあたる。

上伝馬交番のある場所が上伝馬問屋場跡。

上伝馬交番左隣の江崎パーキングには”上伝馬問屋場跡”の解説板を設置している。

藤枝タクシーの辺りが上本陣跡。

柴田医院駐車場辺り(写真右手)が下本陣跡。藤枝宿の上・下本陣は跡形もなく消え去っている。

下本陣跡より京方の旧上伝馬町。

大慶寺付近、旧上伝馬町東側の町並み。

大慶寺の境内で樹勢を誇り聳える久遠の松。日蓮がお手植えの伝説がある。

上伝馬町の神明神社。境内に池波正太郎が書いた時代小説の主人公”仕掛人 藤枝梅安出生地”の碑を置く。半年前、真田丸ブームに乗って上田へ行ったときに見学した”真田太平記館”のことを、こんなところで思い返すことになるとは。歴史小説が繋げる縁を感じてしまう。

旧吹屋町の千歳交差点北西角にある千歳公園。

”ちとせ通り”の北側が旧吹屋町で、南側が旧鍛冶町にあたる。

かつての長楽寺町は長楽寺商店街に。

本能寺の変の後、徳川家康を助けた小川孫三が移り住み、諸役御免の朱印状を賜った白子町。現在は白子名店街に。

徳川家康ゆかりの町「藤枝白子町」の看板。白子町の成立は本能寺の変から4年後の天正14年(1586年)とある。

旧白子町の江戸方隣りの旧下伝馬町。こちらは本町商店街になっている。

サッカーボールを模した街灯が印象的な本町商店街。

旧下伝馬町の田中城大手入口。ここで本日の歩き旅は終い。続きは田中城址の散策からにしよう。

東海道五十三次之内藤枝 人馬継立
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「藤枝宿」より引用
志太から瀬戸川を渡れば藤枝宿で、今は勝草橋で難なく渡河できる。江戸時代には仮橋を架けることもあったようだが、川越人足による”徒歩渡し”で旅人を渡河させており、瀬戸川両岸に位置する藤枝側の河原町、島田側の志太村・稲川村には川越人足15人が常備されていた。大井川には遠く及ばず川幅も狭くて水深も浅かったが、それでも大井川と同じく川の水量で川越し賃銭が定められ、最も高い乳通水で32文(約960円)だったとか。大井川の川越し賃で最も安い股通しの48文(約1440円)より安く、それほど難なく渡ることができたことが想像できる。そのため自力で歩いて渡る旅人も多かったようで、川越人足は目溢ししていたらしい。
藤枝宿は江戸日本橋から東海道五十三次を22宿目、京都三条大橋から32宿目。水守・市部・五十海(いかるみ)・若王子(にゃくおうじ)・鬼岩寺・益津・長楽寺・郡(こおり)村の8ヶ村の各一部から成り、宿西側入口の川原町から上伝馬町・木町・吹屋町・鍛冶町・長楽寺町・白子町・下伝馬町・左車町の9ヶ町で構成。川原・木町・吹屋町・鍛冶町は上伝馬町、長楽寺町・左車町は下伝馬町に属し、上・下伝馬町それぞれに問屋場を置いて、上伝馬町が江戸方への下りの荷物、下伝馬町では京方への上りの荷物を継立した。長楽寺町と下伝馬町の間にあった白子町は、本能寺の変の際に徳川家康の危機を救った伊勢国白子の小川孫三が移り住んだことに由来し、家康から地子・諸役御免の朱印状を与えられたことで、人馬継立等の諸役が免除される町だった。天保14年(1843年)当時、宿内町並み東西19町12間(約2093m)、人口4425人、家数1061軒、うち本陣2、脇本陣0、旅籠屋37軒。下伝馬町に田中城の大手口があり、城下町のとして側面も持っていた。名物は染飯と鮮魚料理、名産品に”藤枝だるま”。

藤枝宿西外れを流れる瀬戸川。かつては川越人足による徒歩渡しで渡河していたが、見ての通りの川幅と水量なので、自力で徒歩渡りする旅人も多かった。

勝草橋東詰。この先は藤枝宿の旧川原町。町長さ54間(約94m)の短い町だったが、宿入口には西木戸門が設けられ、川庄屋や川会所があった。おそらく川越人足が待機する宿もあったはず。

サッカー最中の池田屋辺りが川原町と上伝馬町の境だったと思われる。ちなみに池田屋はサッカーボール型の最中を製造販売していた和菓子屋だが、訪れたときにはシャッターが閉められていた。

旧上伝馬町に入り振り返って旧川原町方面。

正定寺の境内で見事な枝ぶりを見せる本願の松。

焼津信用金庫とビジネスホテル富岡屋がある交差点。ここは上伝馬町の東海道から瀬戸谷街道が分岐していた追分。北西方向に延びる瀬戸谷街道筋は旧木町にあたる。

上伝馬交番のある場所が上伝馬問屋場跡。

上伝馬交番左隣の江崎パーキングには”上伝馬問屋場跡”の解説板を設置している。

藤枝タクシーの辺りが上本陣跡。

柴田医院駐車場辺り(写真右手)が下本陣跡。藤枝宿の上・下本陣は跡形もなく消え去っている。

下本陣跡より京方の旧上伝馬町。

大慶寺付近、旧上伝馬町東側の町並み。

大慶寺の境内で樹勢を誇り聳える久遠の松。日蓮がお手植えの伝説がある。

上伝馬町の神明神社。境内に池波正太郎が書いた時代小説の主人公”仕掛人 藤枝梅安出生地”の碑を置く。半年前、真田丸ブームに乗って上田へ行ったときに見学した”真田太平記館”のことを、こんなところで思い返すことになるとは。歴史小説が繋げる縁を感じてしまう。

旧吹屋町の千歳交差点北西角にある千歳公園。

”ちとせ通り”の北側が旧吹屋町で、南側が旧鍛冶町にあたる。

かつての長楽寺町は長楽寺商店街に。

本能寺の変の後、徳川家康を助けた小川孫三が移り住み、諸役御免の朱印状を賜った白子町。現在は白子名店街に。

徳川家康ゆかりの町「藤枝白子町」の看板。白子町の成立は本能寺の変から4年後の天正14年(1586年)とある。

旧白子町の江戸方隣りの旧下伝馬町。こちらは本町商店街になっている。

サッカーボールを模した街灯が印象的な本町商店街。

旧下伝馬町の田中城大手入口。ここで本日の歩き旅は終い。続きは田中城址の散策からにしよう。

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