田中城址
【旧東海道歩き 第25日目】西焼津駅→田中城址→藤枝宿→岡部宿→岡部支所前停留所
【2016年12月24日(土)旧東海道 藤枝宿】
藤枝宿から南東に約1km、江戸時代を通して田中藩の藩庁をなす田中城があった。北に葉梨川、南に瀬戸川が流れる低地に築かれた平城で、天文6年(1537年)今川氏が築いた城が前身。今川義元が桶狭間に斃れて後は武田家の城となり、山県昌景や板垣信安が入城し改修を加えた。関ヶ原合戦で徳川が勝利を収めて翌年の慶長6年(1601年)、酒井忠利が田中城に入り城郭を拡張整備、今に見る本丸を中心に同心円状に外郭が囲む珍しい構造の城郭が形成される。二の丸や三の丸出入口には武田流築城術の特徴といわれる半円形の丸馬出と三日月堀が設けられ、今川・武田時代から徳川の世に至り、中世から近世城郭へと歩む変遷が見られる貴重な城郭遺構と言えよう。因みに徳川家康の死因は”鯛の天ぷら”による食中毒ともいわれるが、その”鯛の天ぷら”を食べたとされるのが、ここ田中城なのである。
私はここを訪れて興味深い歴史を知る。私の住んでいる柏市の北西部には行政区域名になっていないにも関わらず、田中と呼ばれる地域があり、”柏たなか駅”や”柏たなか病院”をはじめ”田中小学校”に”田中中学校”、JAいちかわ田中(旧田中農協)など、田中を名に付ける施設が多くあるのだが、その由来を特に気にすることはなかった。田中城下屋敷を訪ねた際、案内人の方に柏市から来たことを告げると、田中藩には柏市域に飛領があって陣屋を構えていたこと、その陣屋があった船戸地区とは祭りなどで交流があることなどを聞く。なるほど、柏の”田中”はここに存在した田中藩に由来があったのか!と、偶然ながらローカルな歴史を知り、何だか柏市民として縁を感じてしまう。案内人の方に説明を聞いた後、「柏から来てくださったことを知ればメンバーも喜びますので是非ご署名を」と言われ、私も嬉しい思いで来場者名簿に住所と氏名を記入したしだい。旅の面白さは遠くの観光地に行くことではない、こういった偶然の出会いにこそ醍醐味があるのだ。

田中城址の最寄り駅、西焼津駅で下車。

西焼津駅からとぼとぼ歩いて、田中城内東側入口にあたる六間川橋に着く。江戸時代には新宿木戸が設けられていた。

六間川橋から下流方向に向かって歩き、田中城下屋敷へ。ここは江戸時代後期に藩主の下屋敷があった所で、築山・泉水・茶室などが設けられていた。現在は当時の下屋敷の構造を復元すると共に、田中城ゆかりの建物を集めて一般公開している。入口には冠木門、その傍らには田中城本丸櫓が移築され城跡らしい景観を見せる。

田中城本丸櫓。本丸南東隅の石垣上にあった”御亭”と呼ぶ建物が、この櫓だとされる。本丸櫓は明治維新後に村山氏に払い下げられ、移築して長きに渡り住宅として利用されてきたが、近年に村山氏から寄贈を受け、再び田中城の地に戻ることになった。

本丸櫓の傍らには田中藩牓示石を置く。この「従是西田中領」と刻む標石は、かつて東海道筋の”法の橋”袂(藤枝市仮宿)にあった。

本丸櫓1階内部。

本丸櫓1階に展示する田中城下の模型。

田中城模型の本丸。現在の本丸は西益津小学校の敷地と化し、その周辺を取り囲む二の丸・三の丸も宅地化されてしまった。

本丸櫓2階内部。

本丸櫓2階より本丸方面を望む。

澄み切った深い青空に本丸櫓が映える。

長楽寺村郷倉。かつて長楽寺村(現 藤枝市本町1丁目)にあった年貢米や非常米(飢饉に備えた救済貸付用の米)の保管蔵で、明治10年頃に中西家へ払い下げられたもの。中西家より近年に寄贈された。

下屋敷泉水から旧六間川枝流路の大溝跡。

旧六間川本流と大溝の間に設けられていた土塁跡。

下屋敷庭園跡の解説板。

下屋敷泉水。かつては六間川の本流を利用した下屋敷庭園の池で、昭和時代には畑地と化していたが、近年に下屋敷が整備されるにあたり復元された。

仲間部屋と厩。大洲村(現 藤枝市大洲)の大塚家長屋門は田中城内から移された建物との言い伝えがあり、市が調査したところ付設する納屋が城内にあったものと判明、仲間部屋と厩を1棟に仕立てた建物で、板材の書付から安政6年(1859年)頃の建築と推定されている。近年に大塚家より寄贈された。

仲間部屋。

下屋敷から六軒川の対岸、馬場・馬見所跡。

下屋敷の北西辺を流れる六間川。

六間川筋を上流へ進み再び六間川橋に戻り。

六間川橋から北西に約60m、作事役所跡。

新宿一之門跡前。住宅地と化した路傍には、新宿一之門前の三日月堀跡を示す標柱がひっそりと立つ。

三の丸南東側入口の新宿一之門跡。西益津小学校の敷地一角にその跡地を示す標柱がある。

新宿二之門前、三の丸に設けていた三日月堀(馬出曲輪)跡。わずかにその遺構と水を残している。

新宿二之門前の三日月堀跡に設ける解説板より。往時の絵図を見れば、その変遷を実感できよう。

三之堀跡東辺。かつての水堀は水田と用水路に化しているが、僅かに土塁を残している。

三之堀東辺に残る土塁(写真奥)。

田中城は平城といった立地条件だけに、水堀の所々から湧き水が出ていたとのことだが、鉄分が多く飲料には適さなかったという。排水溝の水底を見れば、今も水に多くの鉄分が含んでいることをうかがう。田中城で飲料等に用いる上水は、城西の姥ヶ池から城内まで水道管を敷設して引いていた。

平島一之門前にあった家老の重富代助屋敷跡。

三の丸北東側入口の平島一之門跡。写真奥が本丸方面で、70m程先に二の丸入口となる平島ニ之門があった。元々はここが大手口で御成街道に通じていたが、江戸時代になると藤枝宿側へ大手口が移り、ここは開かずの門になったという。

平島一之門跡の西側に残る三の丸土塁。

三の丸土塁前にあった三之堀は田畑になっている。

平島二之門跡前、原田動物病院の辺りが家老の遠藤俊臣屋敷跡。

平島二之門跡より一之門跡を望む。

本丸北東辺の本丸堀跡。かつて本丸を取り囲んだ水堀は道になり。

本丸跡には西益津小学校の校舎が建ち、中に入ることはできない。

西益津小学校の敷地内を柵越しに覗くと、田中城の模型らしきものが見える。本丸らしき場所に天守があるのだが、田中城に天守は存在しなかったはず。

本丸堀跡より平島二之門跡方面。

二の丸北西側入口の大手二之門跡。二之堀に架かっていた木造の太鼓橋を復元している。

太鼓橋上より二之堀を望む。

田中城の水堀がほぼ埋め立てられてしまった中、二之堀の西辺は水を残し往時を偲ぶ。

御殿跡に建つ西益津中学校。

三の丸北東側入口の大手一之門跡。沢医院の敷地内(写真右手)に土塁らしき土盛りが見られる。

大手一之門前の三日月堀跡。痕跡は全くない。写真奥が大手一之門跡。

大手一之門の北側、三の丸にあった日知館跡。民家の敷地内に日知館跡の標柱がある。日知館は田中藩の藩校。

大手一之門跡の南側、水堀を残す三之堀の南西辺。

水堀と土塁の遺構が残り城跡らしい雰囲気。

三之堀にて。

三之堀の外側には武家屋敷の石垣跡。

土塁上より三之堀と武家屋敷の石垣跡を望む。

清水御門跡。西益津中学校の校舎が建ち遺構は残っていない。

清水御門前にあった勤番長屋跡。

南部屋跡は西益津中学校のグランドやテニスコートに化している。

田中城の南西外れで水を湛える姥ヶ池。今も清水が湧き出している。江戸時代にはここから水道の木管を城内まで敷設して水を引き、飲料等の上水として利用した。

藤枝宿方面から城内への入口、松原木戸跡。ここで田中城址の散策は終わとし、藤枝宿へ向かう。

松原木戸跡西側の観音山。かつての大手道はこの山の南西麓を通っていた。麓に田中神社と満願寺がある。

田中神社拝殿。裏手の観音山頂に本殿がある。

旧東海道から大手道の分岐点、大手木戸口跡。
【2016年12月24日(土)旧東海道 藤枝宿】
藤枝宿から南東に約1km、江戸時代を通して田中藩の藩庁をなす田中城があった。北に葉梨川、南に瀬戸川が流れる低地に築かれた平城で、天文6年(1537年)今川氏が築いた城が前身。今川義元が桶狭間に斃れて後は武田家の城となり、山県昌景や板垣信安が入城し改修を加えた。関ヶ原合戦で徳川が勝利を収めて翌年の慶長6年(1601年)、酒井忠利が田中城に入り城郭を拡張整備、今に見る本丸を中心に同心円状に外郭が囲む珍しい構造の城郭が形成される。二の丸や三の丸出入口には武田流築城術の特徴といわれる半円形の丸馬出と三日月堀が設けられ、今川・武田時代から徳川の世に至り、中世から近世城郭へと歩む変遷が見られる貴重な城郭遺構と言えよう。因みに徳川家康の死因は”鯛の天ぷら”による食中毒ともいわれるが、その”鯛の天ぷら”を食べたとされるのが、ここ田中城なのである。
私はここを訪れて興味深い歴史を知る。私の住んでいる柏市の北西部には行政区域名になっていないにも関わらず、田中と呼ばれる地域があり、”柏たなか駅”や”柏たなか病院”をはじめ”田中小学校”に”田中中学校”、JAいちかわ田中(旧田中農協)など、田中を名に付ける施設が多くあるのだが、その由来を特に気にすることはなかった。田中城下屋敷を訪ねた際、案内人の方に柏市から来たことを告げると、田中藩には柏市域に飛領があって陣屋を構えていたこと、その陣屋があった船戸地区とは祭りなどで交流があることなどを聞く。なるほど、柏の”田中”はここに存在した田中藩に由来があったのか!と、偶然ながらローカルな歴史を知り、何だか柏市民として縁を感じてしまう。案内人の方に説明を聞いた後、「柏から来てくださったことを知ればメンバーも喜びますので是非ご署名を」と言われ、私も嬉しい思いで来場者名簿に住所と氏名を記入したしだい。旅の面白さは遠くの観光地に行くことではない、こういった偶然の出会いにこそ醍醐味があるのだ。

田中城址の最寄り駅、西焼津駅で下車。

西焼津駅からとぼとぼ歩いて、田中城内東側入口にあたる六間川橋に着く。江戸時代には新宿木戸が設けられていた。

六間川橋から下流方向に向かって歩き、田中城下屋敷へ。ここは江戸時代後期に藩主の下屋敷があった所で、築山・泉水・茶室などが設けられていた。現在は当時の下屋敷の構造を復元すると共に、田中城ゆかりの建物を集めて一般公開している。入口には冠木門、その傍らには田中城本丸櫓が移築され城跡らしい景観を見せる。

田中城本丸櫓。本丸南東隅の石垣上にあった”御亭”と呼ぶ建物が、この櫓だとされる。本丸櫓は明治維新後に村山氏に払い下げられ、移築して長きに渡り住宅として利用されてきたが、近年に村山氏から寄贈を受け、再び田中城の地に戻ることになった。

本丸櫓の傍らには田中藩牓示石を置く。この「従是西田中領」と刻む標石は、かつて東海道筋の”法の橋”袂(藤枝市仮宿)にあった。

本丸櫓1階内部。

本丸櫓1階に展示する田中城下の模型。

田中城模型の本丸。現在の本丸は西益津小学校の敷地と化し、その周辺を取り囲む二の丸・三の丸も宅地化されてしまった。

本丸櫓2階内部。

本丸櫓2階より本丸方面を望む。

澄み切った深い青空に本丸櫓が映える。

長楽寺村郷倉。かつて長楽寺村(現 藤枝市本町1丁目)にあった年貢米や非常米(飢饉に備えた救済貸付用の米)の保管蔵で、明治10年頃に中西家へ払い下げられたもの。中西家より近年に寄贈された。

下屋敷泉水から旧六間川枝流路の大溝跡。

旧六間川本流と大溝の間に設けられていた土塁跡。

下屋敷庭園跡の解説板。

下屋敷泉水。かつては六間川の本流を利用した下屋敷庭園の池で、昭和時代には畑地と化していたが、近年に下屋敷が整備されるにあたり復元された。

仲間部屋と厩。大洲村(現 藤枝市大洲)の大塚家長屋門は田中城内から移された建物との言い伝えがあり、市が調査したところ付設する納屋が城内にあったものと判明、仲間部屋と厩を1棟に仕立てた建物で、板材の書付から安政6年(1859年)頃の建築と推定されている。近年に大塚家より寄贈された。

仲間部屋。

下屋敷から六軒川の対岸、馬場・馬見所跡。

下屋敷の北西辺を流れる六間川。

六間川筋を上流へ進み再び六間川橋に戻り。

六間川橋から北西に約60m、作事役所跡。

新宿一之門跡前。住宅地と化した路傍には、新宿一之門前の三日月堀跡を示す標柱がひっそりと立つ。

三の丸南東側入口の新宿一之門跡。西益津小学校の敷地一角にその跡地を示す標柱がある。

新宿二之門前、三の丸に設けていた三日月堀(馬出曲輪)跡。わずかにその遺構と水を残している。

新宿二之門前の三日月堀跡に設ける解説板より。往時の絵図を見れば、その変遷を実感できよう。

三之堀跡東辺。かつての水堀は水田と用水路に化しているが、僅かに土塁を残している。

三之堀東辺に残る土塁(写真奥)。

田中城は平城といった立地条件だけに、水堀の所々から湧き水が出ていたとのことだが、鉄分が多く飲料には適さなかったという。排水溝の水底を見れば、今も水に多くの鉄分が含んでいることをうかがう。田中城で飲料等に用いる上水は、城西の姥ヶ池から城内まで水道管を敷設して引いていた。

平島一之門前にあった家老の重富代助屋敷跡。

三の丸北東側入口の平島一之門跡。写真奥が本丸方面で、70m程先に二の丸入口となる平島ニ之門があった。元々はここが大手口で御成街道に通じていたが、江戸時代になると藤枝宿側へ大手口が移り、ここは開かずの門になったという。

平島一之門跡の西側に残る三の丸土塁。

三の丸土塁前にあった三之堀は田畑になっている。

平島二之門跡前、原田動物病院の辺りが家老の遠藤俊臣屋敷跡。

平島二之門跡より一之門跡を望む。

本丸北東辺の本丸堀跡。かつて本丸を取り囲んだ水堀は道になり。

本丸跡には西益津小学校の校舎が建ち、中に入ることはできない。

西益津小学校の敷地内を柵越しに覗くと、田中城の模型らしきものが見える。本丸らしき場所に天守があるのだが、田中城に天守は存在しなかったはず。

本丸堀跡より平島二之門跡方面。

二の丸北西側入口の大手二之門跡。二之堀に架かっていた木造の太鼓橋を復元している。

太鼓橋上より二之堀を望む。

田中城の水堀がほぼ埋め立てられてしまった中、二之堀の西辺は水を残し往時を偲ぶ。

御殿跡に建つ西益津中学校。

三の丸北東側入口の大手一之門跡。沢医院の敷地内(写真右手)に土塁らしき土盛りが見られる。

大手一之門前の三日月堀跡。痕跡は全くない。写真奥が大手一之門跡。

大手一之門の北側、三の丸にあった日知館跡。民家の敷地内に日知館跡の標柱がある。日知館は田中藩の藩校。

大手一之門跡の南側、水堀を残す三之堀の南西辺。

水堀と土塁の遺構が残り城跡らしい雰囲気。

三之堀にて。

三之堀の外側には武家屋敷の石垣跡。

土塁上より三之堀と武家屋敷の石垣跡を望む。

清水御門跡。西益津中学校の校舎が建ち遺構は残っていない。

清水御門前にあった勤番長屋跡。

南部屋跡は西益津中学校のグランドやテニスコートに化している。

田中城の南西外れで水を湛える姥ヶ池。今も清水が湧き出している。江戸時代にはここから水道の木管を城内まで敷設して水を引き、飲料等の上水として利用した。

藤枝宿方面から城内への入口、松原木戸跡。ここで田中城址の散策は終わとし、藤枝宿へ向かう。

松原木戸跡西側の観音山。かつての大手道はこの山の南西麓を通っていた。麓に田中神社と満願寺がある。

田中神社拝殿。裏手の観音山頂に本殿がある。

旧東海道から大手道の分岐点、大手木戸口跡。

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