岡部宿川原町と十石坂
【旧東海道歩き 第26日目】岡部宿柏屋前停留所→岡部宿→丸子宿→府中宿→静岡駅
【2017年3月19日(日)旧東海道 岡部宿→丸子宿】
3月になって2017年初めての旧東海道歩きである。旧東海道歩きをはじめたのが2013年5月、早いもので間もなく4年が経つ。遅々として進んでいないが、ようやく静岡県にまで到達した。今年はどこまで歩みを進めることができるのだろうか、関東地方に春一番が吹き木々や虫の息吹を感じ始めた頃、そんな思いで東京駅からひかり463号岡山行に乗車、静岡駅から”しずてつバス”で岡部宿柏屋前停留所へ移動し、前回の終着地岡部宿から丸子宿・府中宿へ向かう。
岡部宿本町の大旅籠柏屋から岡部川を渡れば宿場江戸方端にあたる川原町、北側一帯の山と南側を流れる岡部川に挟まれた山裾の僅かな平地に形成された宿場江戸方入口にあたる町だった。川原町の江戸方外れに山裾が岡部川に接する場所があり、ここを越える東海道の坂道を十石坂と呼び、東海道分間絵図にも描かれている。しかし現在は開削されて県道が通され、ほぼ平坦な道と化しており、十石坂観音堂だけが山裾に残り往時を偲ぶ。十石坂を過ぎた旧東海道は徐々に左右に山裾が迫りくる中、岡部川の右岸を進みながら横添や坂下の集落を経て、いよいよ宇津ノ谷峠越えの山道に。坂下からは戦国期以前の中世に使われた宇津ノ谷峠越えの道、”蔦の細道”が分かれる。

約2ヶ月半ぶり訪れた岡部宿の内野九兵衛本陣跡。

年末の竹灯りに照らされていた本陣跡とは随分と雰囲気が違う。

岡部宿最大の見どころ、大旅籠柏屋。率直な感想、ここに泊まれるなら泊まってみたい。

岡部宿本町の静岡県道208号から分かれる旧道。

文禄4年(1595年)開基の専称寺。江戸時代に伝授された”一ト火灸(ひとひきゅう)”という灸療法を続けている。

岡部川に架かる岡部橋。ここを渡れば岡部宿の本町から川原町に。

岡部川の水は少ない。

岡部橋北詰で旧道は右折。直進の道は三星寺の参道。

曹洞宗三星寺。

笠懸松西住法師墓入口。

笠懸松へアクセスする登り口に設置の解説板より。昭和49年(1974年)頃の笠懸松、周囲の木々が低く、外から見てもひと際目立つ存在だった。

笠懸松登山道から麓の解説板を望む。結構な急勾配の山腹を登っているところ。

これが笠懸松。西行の弟子だった西住という僧が、師の西行から破門されて途方に暮れる中、岡部で病に倒れこの松の木に笠を懸けて辞世の句を残し、この世を去ったと伝わる。破門とした訳は西行が武士から暴力を受けたときに、報復でその武士を杖で殴ってしまったことにあり、西行は自身を思ってとった行動だけに、その死を知って深く悲しみ歌を残したという。
西へ行く 雨夜の月や あみだ笠 影を岡部の松に残して
西住
笠はあり その身はいかに なりならむ あわれはかなき 天の下かな
西行

笠懸松の根元には西住の墓がひっそりと佇む。

笠懸橋より笠懸松の山を望む。昭和49年には見えていた笠懸松は周囲の木々が育ち外からでは視認できない。

昭和49年に撮影された笠懸松の写真に写っていたガソリンスタンドらしき建物。現在も廃墟となりながら残っている。

岡部宿川原町の江戸方端あたり。かつては宿入口の木戸が設けられていたと思う。

十石坂に差し掛かる旧東海道。左手の山裾が岡部川にかかる地点で、現在は開削されてほぼ平坦な道と化している。

十石坂の旧東海道筋に残る十石坂観音堂。ここは江戸時代に西行山最林寺の境内一角にあたり、文化5年(1808年)火災により本堂等が焼失してしまうが観音堂だけが残った。入母屋造りの観音堂は江戸時代末期の建立と推測されている。

観音堂より十石坂の旧東海道岡部方面を望む。

観音堂向かいにある岡部製茶工場。十石坂には江戸日本橋から48里(約188km)を示す一里塚があったのだが、今はそれがどこにあったのかがわからない。東海道分間絵図を見ると「一里塚両方榎一本づゝ、二つながら海道より左に有」と書かれており、十石坂から岡部川の対岸に一里塚があったのではないかと読み取れる。一里塚が築かれた江戸時代初期に東海道は岡部川の南岸を通っていたのかもしれない。

国立国会図書館デジタルコレクションより引用
東海道分間絵図の岡部宿付近。赤矢印が示すところに江戸日本橋から48里目の岡部(十石坂)一里塚が描かれており、どう見ても街道から岡部川を挟んで対岸にあったと思える。岡部(十石坂)一里塚は京三条大橋からは67番目で実測約325km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。

十石坂付近を流れる岡部川。

十石坂を過ぎて間もなく、県道から旧東海道が左に分かれる。

住宅地の岡部台入口前を横に見ながら。

左に岡部川、右に民家が並ぶ横添の集落の中を旧東海道は進む。

横添の旧東海道に架けられる弥左エ門橋。

横添の名残松。

横添の集落から徐々に上り坂となり。東海道分間絵図には”けへい坂”と記されている。

沿道にはかつての街道を思わせる建物も見え。

廻沢口交差点で国道1号に合流。交差点手前で左に分かれる県道208号が、明治から昭和初期にかけて使われた東海道。

道の駅宇津ノ谷峠。

道の駅の北側に現れる旧東海道。

国道1号の下を潜り抜け。

宇津ノ谷峠登り口、坂下の集落へ向かう旧東海道。左側は国道1号によって開削されているが、かつては両側に山裾が迫っていたのだろう。右脇を木和田川が流れ、奥に坂下集落の民家が見える。どこかで見たような風景。そう、ここが広重の浮世絵に描かれた景観によく似ているのだ。

東海道五十三次之内岡部 宇津之山
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「岡部宿」より引用
上写真の場所がこの浮世絵のモチーフとなったのであれば、道の右脇を流れる川は岡部川ではなく、木和田川ということになる。

坂下集落を行く旧東海道。写真中央の建物が坂下地蔵堂。

坂下地蔵堂は東海道名所記にも書かれる御堂で、本尊の延命地蔵尊は鼻取地蔵とも呼ばれ親しまれる。建立年不明、元禄13年(1700年)岡部宿の住人3名が発願して再建し、新たに鐘楼を建立した。東海道名所記から坂下地蔵堂が登場する一文を紹介しておこう。
「宇都の山たうげハ、道せばく。一騎うちに通る難所なり。峠に地蔵堂あり。又、下り坂口にも、地蔵あり。清水ありて。夏旅をたすく、玉葉に、宗尊親王の哥(歌)に
茂りあふ 蔦も楓も紅葉して 木陰秋なる うつの山越」

地蔵堂境内にある蘿経記(らけいき)碑。元は宇津ノ谷峠の京方登り口近付近に置かれていた。文政13年(1830年)中世以前の宇津ノ谷峠越えの道だった”蔦の細道”を名残り惜しみ、駿府代官の羽倉外記(簡堂)が建立した。

旧東海道と蔦の細道の分岐点。左を登る道が旧東海道、右の舗装された道が蔦の細道。

蔦の細道の脇を流れる木和田川。

木和田川二号堰堤。木和田川は明治43年(1910年)8月の豪雨により大規模な土石流が発生、下流域は土砂に埋まり15町歩に及ぶ田畑が埋没してしまう。後に災害対策としてオランダ人ヨハネ・デレーケが直接指導し、大小8基の石積砂防堰堤が築かれた。その形から兜堰堤とも呼ばれる。このニ号堰堤は平成15年の豪雨で崩壊、復旧復元工事により原形に近い形に戻された。

中世以前の宇津ノ谷峠へ向けて延びる蔦の細道。左の建物は休憩施設の蘿径亭。いずれここに再び訪れ、この先を歩いてみたい。

蘿径亭の内部は旧家の主屋を思わせる造り。

蔦の細道を引き返し。

木和田川最下流の一号堰堤を見て。そろそろ、旧東海道から宇津ノ谷峠を越えよう。
【2017年3月19日(日)旧東海道 岡部宿→丸子宿】
3月になって2017年初めての旧東海道歩きである。旧東海道歩きをはじめたのが2013年5月、早いもので間もなく4年が経つ。遅々として進んでいないが、ようやく静岡県にまで到達した。今年はどこまで歩みを進めることができるのだろうか、関東地方に春一番が吹き木々や虫の息吹を感じ始めた頃、そんな思いで東京駅からひかり463号岡山行に乗車、静岡駅から”しずてつバス”で岡部宿柏屋前停留所へ移動し、前回の終着地岡部宿から丸子宿・府中宿へ向かう。
岡部宿本町の大旅籠柏屋から岡部川を渡れば宿場江戸方端にあたる川原町、北側一帯の山と南側を流れる岡部川に挟まれた山裾の僅かな平地に形成された宿場江戸方入口にあたる町だった。川原町の江戸方外れに山裾が岡部川に接する場所があり、ここを越える東海道の坂道を十石坂と呼び、東海道分間絵図にも描かれている。しかし現在は開削されて県道が通され、ほぼ平坦な道と化しており、十石坂観音堂だけが山裾に残り往時を偲ぶ。十石坂を過ぎた旧東海道は徐々に左右に山裾が迫りくる中、岡部川の右岸を進みながら横添や坂下の集落を経て、いよいよ宇津ノ谷峠越えの山道に。坂下からは戦国期以前の中世に使われた宇津ノ谷峠越えの道、”蔦の細道”が分かれる。

約2ヶ月半ぶり訪れた岡部宿の内野九兵衛本陣跡。

年末の竹灯りに照らされていた本陣跡とは随分と雰囲気が違う。

岡部宿最大の見どころ、大旅籠柏屋。率直な感想、ここに泊まれるなら泊まってみたい。

岡部宿本町の静岡県道208号から分かれる旧道。

文禄4年(1595年)開基の専称寺。江戸時代に伝授された”一ト火灸(ひとひきゅう)”という灸療法を続けている。

岡部川に架かる岡部橋。ここを渡れば岡部宿の本町から川原町に。

岡部川の水は少ない。

岡部橋北詰で旧道は右折。直進の道は三星寺の参道。

曹洞宗三星寺。

笠懸松西住法師墓入口。

笠懸松へアクセスする登り口に設置の解説板より。昭和49年(1974年)頃の笠懸松、周囲の木々が低く、外から見てもひと際目立つ存在だった。

笠懸松登山道から麓の解説板を望む。結構な急勾配の山腹を登っているところ。

これが笠懸松。西行の弟子だった西住という僧が、師の西行から破門されて途方に暮れる中、岡部で病に倒れこの松の木に笠を懸けて辞世の句を残し、この世を去ったと伝わる。破門とした訳は西行が武士から暴力を受けたときに、報復でその武士を杖で殴ってしまったことにあり、西行は自身を思ってとった行動だけに、その死を知って深く悲しみ歌を残したという。
西へ行く 雨夜の月や あみだ笠 影を岡部の松に残して
西住
笠はあり その身はいかに なりならむ あわれはかなき 天の下かな
西行

笠懸松の根元には西住の墓がひっそりと佇む。

笠懸橋より笠懸松の山を望む。昭和49年には見えていた笠懸松は周囲の木々が育ち外からでは視認できない。

昭和49年に撮影された笠懸松の写真に写っていたガソリンスタンドらしき建物。現在も廃墟となりながら残っている。

岡部宿川原町の江戸方端あたり。かつては宿入口の木戸が設けられていたと思う。

十石坂に差し掛かる旧東海道。左手の山裾が岡部川にかかる地点で、現在は開削されてほぼ平坦な道と化している。

十石坂の旧東海道筋に残る十石坂観音堂。ここは江戸時代に西行山最林寺の境内一角にあたり、文化5年(1808年)火災により本堂等が焼失してしまうが観音堂だけが残った。入母屋造りの観音堂は江戸時代末期の建立と推測されている。

観音堂より十石坂の旧東海道岡部方面を望む。

観音堂向かいにある岡部製茶工場。十石坂には江戸日本橋から48里(約188km)を示す一里塚があったのだが、今はそれがどこにあったのかがわからない。東海道分間絵図を見ると「一里塚両方榎一本づゝ、二つながら海道より左に有」と書かれており、十石坂から岡部川の対岸に一里塚があったのではないかと読み取れる。一里塚が築かれた江戸時代初期に東海道は岡部川の南岸を通っていたのかもしれない。

国立国会図書館デジタルコレクションより引用
東海道分間絵図の岡部宿付近。赤矢印が示すところに江戸日本橋から48里目の岡部(十石坂)一里塚が描かれており、どう見ても街道から岡部川を挟んで対岸にあったと思える。岡部(十石坂)一里塚は京三条大橋からは67番目で実測約325km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。

十石坂付近を流れる岡部川。

十石坂を過ぎて間もなく、県道から旧東海道が左に分かれる。

住宅地の岡部台入口前を横に見ながら。

左に岡部川、右に民家が並ぶ横添の集落の中を旧東海道は進む。

横添の旧東海道に架けられる弥左エ門橋。

横添の名残松。

横添の集落から徐々に上り坂となり。東海道分間絵図には”けへい坂”と記されている。

沿道にはかつての街道を思わせる建物も見え。

廻沢口交差点で国道1号に合流。交差点手前で左に分かれる県道208号が、明治から昭和初期にかけて使われた東海道。

道の駅宇津ノ谷峠。

道の駅の北側に現れる旧東海道。

国道1号の下を潜り抜け。

宇津ノ谷峠登り口、坂下の集落へ向かう旧東海道。左側は国道1号によって開削されているが、かつては両側に山裾が迫っていたのだろう。右脇を木和田川が流れ、奥に坂下集落の民家が見える。どこかで見たような風景。そう、ここが広重の浮世絵に描かれた景観によく似ているのだ。

東海道五十三次之内岡部 宇津之山
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「岡部宿」より引用
上写真の場所がこの浮世絵のモチーフとなったのであれば、道の右脇を流れる川は岡部川ではなく、木和田川ということになる。

坂下集落を行く旧東海道。写真中央の建物が坂下地蔵堂。

坂下地蔵堂は東海道名所記にも書かれる御堂で、本尊の延命地蔵尊は鼻取地蔵とも呼ばれ親しまれる。建立年不明、元禄13年(1700年)岡部宿の住人3名が発願して再建し、新たに鐘楼を建立した。東海道名所記から坂下地蔵堂が登場する一文を紹介しておこう。
「宇都の山たうげハ、道せばく。一騎うちに通る難所なり。峠に地蔵堂あり。又、下り坂口にも、地蔵あり。清水ありて。夏旅をたすく、玉葉に、宗尊親王の哥(歌)に
茂りあふ 蔦も楓も紅葉して 木陰秋なる うつの山越」

地蔵堂境内にある蘿経記(らけいき)碑。元は宇津ノ谷峠の京方登り口近付近に置かれていた。文政13年(1830年)中世以前の宇津ノ谷峠越えの道だった”蔦の細道”を名残り惜しみ、駿府代官の羽倉外記(簡堂)が建立した。

旧東海道と蔦の細道の分岐点。左を登る道が旧東海道、右の舗装された道が蔦の細道。

蔦の細道の脇を流れる木和田川。

木和田川二号堰堤。木和田川は明治43年(1910年)8月の豪雨により大規模な土石流が発生、下流域は土砂に埋まり15町歩に及ぶ田畑が埋没してしまう。後に災害対策としてオランダ人ヨハネ・デレーケが直接指導し、大小8基の石積砂防堰堤が築かれた。その形から兜堰堤とも呼ばれる。このニ号堰堤は平成15年の豪雨で崩壊、復旧復元工事により原形に近い形に戻された。

中世以前の宇津ノ谷峠へ向けて延びる蔦の細道。左の建物は休憩施設の蘿径亭。いずれここに再び訪れ、この先を歩いてみたい。

蘿径亭の内部は旧家の主屋を思わせる造り。

蔦の細道を引き返し。

木和田川最下流の一号堰堤を見て。そろそろ、旧東海道から宇津ノ谷峠を越えよう。

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