駿府城

静岡市中心部に縄張りの遺構を残す駿府城。その前身は室町時代初期に築かれた今川氏の居館で、同地にあったとされるが正確な規模や位置は特定できていない。今川氏が桶狭間の戦いを機に没落したことで、武田信玄が駿河侵攻を開始して駿府へ進出、今川家当主の氏真は駿府城を脱出し掛川城へ逃れた。信玄は今川氏の居館や駿府の町を焼き払い、新たに江尻城を築いて駿河支配の拠点とする。天正10年(1582年)武田家が滅亡すると駿河は徳川家康の領国となり、家康は同13年から駿府城の築城をはじめ、翌年に浜松城から移った。同18年秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡、家康は関東に移封となり江戸城へ移ることになり、代わって駿府城へ入ったのが秀吉側近の中村一氏。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは東軍に与するが合戦直前に病死し、合戦には長子忠一が出陣して戦功をあげ、伯耆米子17万5000石を与えられ転封、代わって内藤信成が伊豆韮山から入城した。

慶長10年(1605年)家康は秀忠に将軍の座を譲り隠居、とは言っても大御所となり絶大な権力を維持しており、同12年隠居地とした駿府城を大改修するため、全国の大名を動員して天下普請を開始。本丸・二の丸・三の丸に三重の水堀を巡らせ、今に残る壮大な縄張りが完成、本丸北西隅には五層の天守が築かれた。慶長14年(1609年)第10子の頼宜を8歳で城主とし駿河遠江50万石を領有させている。元和2年(1616年)家康が没した後も、頼宜は在城していたが、同5年紀州和歌山へ移り、紀州徳川家初代当主となった。寛永元年(1624年)二代将軍秀忠の三男忠長が入城、忠長は同8年粗暴の不行跡を理由に兄の三代将軍家光により改易、蟄居を命ぜられ同10年上州高崎で自刃した。以後、幕末まで駿府城は城主不在となり、幕府から派遣される城代が管理した。

慶応3年(1867年)江戸幕府は大政奉還し、翌年に徳川家達が入城するが、明治4年(1871年)廃藩置県により駿府城は廃城、城地は静岡市に払下げられ、建造物は明治3年から同9年にかけて払い下げや取り壊しにより失われた。明治29年(1896年)陸軍省の所有となり歩兵第34連隊を設置、これに伴い天守台は均され本丸堀は埋め立てられてしまう。第二次世界大戦の終戦後、城跡は静岡市の管理に戻り、駿府公園として整備。平成になってから巽櫓や二ノ丸東御門、坤櫓が復元され、今は昨年(2016年)8月からはじまった天守台発掘調査の真っ最中である。




駿府御城繪圖
「駿府御城繪圖」(静岡県立中央図書館ホームページより引用)を基に作成
安政7年(1860年)作成、明治21年(1888年)出版の駿府城絵図。


駿府橋
三之丸堀東辺に架かる駿府橋から城内へ。橋の右奥が横内御門跡で、石垣が残っている。


横内御門跡
駿府橋付近に残る三之丸堀。奥に見える石垣がかつての横内御門への通路。


駿府城在番組頭屋敷跡
駿府城在番組頭屋敷跡。駿府城は寛永10年(1633年)に幕府より派遣された城代が管理するようになると、城内には警護を行なう番衆が幾つかの組に分けられ常駐した。その組頭の屋敷が横内御門付近の三之丸にあったとされる。


二ノ丸堀
二ノ丸西辺に残る二ノ丸堀。


二ノ丸東御門
二ノ丸東御門と水堀。


二ノ丸東御門
二ノ丸東御門は平成8年(1996年)に復元完成した。


巽櫓
二ノ丸の南東角、東御門に隣接する巽櫓。最初に復元された城の建造物で、平成元年(1989年)に完成。


二ノ丸東御門
東御門から二ノ丸へ入ろう。


二ノ丸東御門
東御門の枡形。二ノ丸方向。


二ノ丸東御門
東御門の枡形。三ノ丸方向。


二ノ丸東御門
二ノ丸より東御門。


二ノ丸東御門
東御門の中に。


駿府城模型
東御門展示室に展示する駿府城模型。城郭の規模や様子を実感。


駿府城天守模型
駿府城天守模型。駿府城の天守は慶長期の改修時に一度焼失し、慶長13年(1608年)に完成。城主不在となっていた寛永12年(1635年)、城下の茶町を出火元にした大火があり御殿・櫓・城門などが焼失、天守もこの時に失われた。幕府はすぐさま再建に取り掛かるが、天守だけは再建されることなく現在に至っている。


駿府城下模型
こちらは城下町復元模型。”駿府九十六ヵ町”と称された城下の繁栄がうかがえよう。


駿府城下模型
安倍川側から城下を眺める。


駿府お茶壺道中
駿府お茶壺道中の駕籠。駿府に在城していた徳川家康は、いつでも茶会を催すことを目的に、風味を損なわぬよう静岡本山茶の新茶を茶壺に詰め、駿府から北へ約40kmの井川大日峠にお茶蔵を建てて保管するよう命じた。夏も近づく八十八夜に摘まれた新茶をお茶蔵に保管し、晩秋に山から下ろして茶会を開いたという。この茶を積んで駿府と井川の間を往来したのが”お茶壺道中行列”なのだ。


二ノ丸東御門
東御門内より枡形を望む。


本丸堀
二ノ丸・本丸の散策に。少しだけ残る本丸堀。大部分の本丸堀は歩兵第34連隊の設置時に埋められてしまった。


二ノ丸水路脇の柳
二ノ丸水路に架かる橋。橋袂の柳は”銀座の柳二世”。慶長11年(1606年)駿府両替町に銀座が設置され、同17年に江戸(新両替町、現銀座2丁目)に移される。明治2年(1869年)に新両替町は銀座に改称、同10年に柳の植樹がはじまり、柳の街路樹は銀座のシンボルとなった。昭和20年(1945年)東京大空襲で銀座の柳は大部分が焼失、後に柳の街路樹は復興するも、昭和40年代の高度成長期に姿を消す。昭和60年頃に有志の保存運動で柳復活の機運が高まり、目黒区内に残っていた銀座の柳より挿木で根付かせ、苗木を育てることに成功、全国各地への寄贈がはじまった。この柳は平成14年(2002年)新旧銀座の縁により駿府公園に植樹された9本のうちの一つ。


二ノ丸水路
二ノ丸水路は本丸堀と二ノ丸堀を繋ぐ水路だった。


紅葉山庭園
二ノ丸跡北東隅に整備された紅葉山庭園。池を中心にして築山や庭石、草木を配し大名庭園を彷彿させる。


紅葉山庭園
庭園内には四阿(あずまや)や茶室が設けられ、本格的な日本庭園の様相。


紅葉山庭園
紅葉山庭園の四阿。


北御門跡
二ノ丸北側出入口の北御門跡。搦手(裏手)側の門にあたり、太平の世では不明(あかず)の門だったようだ。


北門花壇
北門花壇では色とりどりの花を咲かせ来訪者を迎える。


馬場先御門跡
北御門に隣接して設けられていた馬場先御門跡。北御門に付随する構造物とする見方もある。


駿府御城繪圖 北御門・馬場先御門
「駿府御城繪圖」(静岡県立中央図書館ホームページより引用)を基に作成
安政7年(1860年)作成の駿府城絵図に見る馬場先御門と北御門(黄色の矢印で図示)。北御門を通って最短に天守へ向かうには馬場先門を通らなければならないという仕組み。


本丸跡
本丸跡では”肉フェス”を開催中。


本丸跡の徳川家康像
本丸跡に立つ大御所時代の徳川家康公像。


家康手植えのミカン
家康公像前にある”家康手植えのミカン”。


天守台発掘調査現場
天守台発掘調査現場を見学しよう。


発掘情報館きゃっしる
発掘情報館きゃっしる。駿府城に関する映像を見れるほか、発掘調査の成果や出土品の展示を行っている。




天守台発掘調査現場
天守台発掘調査現場。


天守台発掘調査現場
発掘された天守台西辺の石垣。明治29年(1896年)歩兵第34連隊が設置されたことにより天守台は均され本丸堀は埋められたが、土中には天守台下部の石垣がしっかり残っていた。


天守台発掘調査現場
「丸に𠮷」の刻印がされた石。


天守台発掘調査現場
天守台北西隅の石垣。


天守台発掘調査現場
本丸堀を掘り返す現場ではどんどん水が湧き出てくるため、ポンプで排出しているという。元は水堀だった場所だけに、地中に水脈が残っているのだろう。


西門橋
西門橋が架かる清水御門跡。二ノ丸へ入る西側出入口。


二ノ丸堀
西門橋より南側の二ノ丸堀。


二ノ丸堀
西門橋より北側の二ノ丸堀。往時の様子を肌身に感じられるのが二ノ丸堀で、駿府城の遺構を最もよく残している。


坤櫓
二ノ丸南西隅に建つ坤櫓(ひつじさるやぐら)。安政元年(1854年)に発生した安政の大地震で崩壊、再建されることなく明治4年(1871年)に駿府城は廃城に。平成23年(2011年)復元工事が始まり同26年完成、約160年ぶりに復活した。


本丸跡
肉フェスで賑わう本丸跡。


二ノ丸橋
現在の城址正面入口といえる二ノ丸南側出入口の二ノ丸橋。現役時代にこの出入口と橋は存在せず、70m程西側に二ノ丸御門が設けられていたが現存していない。


二ノ丸橋
二ノ丸橋全景。


二ノ丸石垣
二ノ丸橋袂の石垣と二ノ丸堀。


二ノ丸石垣にて
石垣で羽を休めるハト。なんでこんな落ち着かないところに…。


二ノ丸御門跡
二ノ丸御門跡。奥に見えるのが二ノ丸橋、かつてはこの辺りに二ノ丸御門へ通ずる橋が架かっていたが、その出入口は石垣で閉じられている。


坤櫓
二ノ丸御門跡付近より坤櫓を望む。


大手御門跡
三之丸内、大手御門跡へ通じる道。


大手御門跡
枡形と石垣を残す大手御門跡。三之丸南側に設けられていた城内への正面入口。


大手御門跡
大手御門石垣。切込み接ぎの石垣が大部分の中に野面積みの石垣が見られ、ここは櫓門が石垣上に建っていた部分にあたる。石垣の積み方に違いがあるのは安政地震後の修復等によるものなのか、近年の復元によるものなのか、不詳。


大手御門跡
大手御門から城下。


駿府城模型02
駿府城模型で見る大手御門。最手前が大手御門で、枡形に櫓門が設けられていたことがわかる。


三之丸堀
大手御門付近に残る三之丸堀。


駿府町奉行所跡
静岡市役所の敷地が駿府町奉行所跡。寛永9年(1632年)に設置され、駿府城下の司法や行政を担った。明治元年(1868年)に廃止されるまで歴代の町奉行は旗本を主に63人が任命された。


札の辻
東海道から大手御門へ通ずる道の分岐点、札の辻。旧東海道は写真交差点奥から左折、手前方向が大手御門へ通じ、その入口の道中央に高札場が設けられていた。


東海道分間延絵図 駿府
東御門展示室に展示の東海道分間延絵図より。札の辻の様子がよくわかる。


里程元標跡
里程元標跡。札の辻は明治になると静岡市の道路の起点とされ、里程元標が設置されていた。現在、本物は現存しておらず「里程元標址」碑が代わりに置かれている。

札の辻から京方面の新通川越町(現 静岡市葵区川越町)まで府中宿を散策してみよう。次の記事で。


撮影日:2017年5月5日(金)
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10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
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23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
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京都三条大橋

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