府中宿(伝馬町~下横田町)
【旧東海道歩き 第27日目】くれたけインプレミアム静岡駅前→府中宿→江尻宿→清水駅
【2017年5月6日(土)旧東海道 府中宿→江尻宿】
前日に府中宿西見付跡から伝馬町まで散策し”くれたけインプレミアム静岡駅前”に宿泊、翌朝にしっかりバイキング形式の朝食を腹に仕込んで、朝一から再び伝馬町に立つ。天気も良く気温も最適で気分は上々、江戸方の江尻宿に向けて歩き旅をはじめよう。府中宿は本陣2軒と脇本陣2軒があった上・下伝馬町から江戸方に向かって花陽院門前町・鋳物師町・上横田町・院内町・猿屋町・下横田町と続く町並み。下伝馬町からは久能山・駿河湾へ通じる久能街道が分かれ、江戸時代に東海道を往来する大名は、ここで久能街道に入り東照宮に祀られる大権現を参拝した。府中宿江戸方端の下横田町には東見付が設けられ、その北側には永禄2年(1559年)に今川家家臣の朝比奈元長により創建された音羽山清水寺がある。開山は京都から迎えられた尊寿院大僧正動因と伝わり、ここから眺める眺望が京都の清水寺に似ていたことから同名の寺号を付けたという。

まずは伝馬町にある珠賀美神社に参拝し本日の安全を祈願。珠賀美神社は慶長19年(1614年)金剛山宝泰寺の鎮守として京都所司代板倉勝重が創建した牛頭天王社が始まりといわれる。宝暦8年(1758年)現在地に移転し、明治3年(1870年)現社号に改められた。

珠賀美神社にある久能山東照宮の石燈籠。駿府に鬼彦という怪力の者がおり、この石燈籠を天秤棒に担いで運んでいたところ、当地で天秤棒が折れてしまったため当神社に奉納されたとの伝説がある。

伝馬町の市街一角にありながら大きな敷地を持つ臨済宗の宝泰寺。江戸時代初期には七堂伽藍を備え、朝鮮通信使の休憩所にも使われた。伝馬町の東海道から南側一帯にはこの宝泰寺をはじめ、新光明寺、法傳寺が大きな境内を持ち並んでいた。

静岡マルイの建物の中に入っている法傳寺。かつては広い境内と数多くの伽藍を有する寺院だった。

東御門展示室に展示の「東海道分間延絵図」を基に作成
宝泰寺を筆頭に法傳寺や新光明寺も数多い伽藍を有する大きな寺院だったことをうかがう。

伝馬町の京方端にあたる伝馬町西交差点。

上本陣・望月重治右衛門家跡に建つトップセンタービル。

かつて府中宿上本陣を務めた望月家を偲ぶのは、その跡地に設けるこの標のみ。

下本陣・小倉平左衛門家(写真右手)と脇本陣清三郎家跡(写真左手)。やはりこちらも上本陣跡と同様にビルが建ち並び、往時を偲びようもない。

伝馬町東交差点から江戸方の旧東海道。

伝馬町小前交差点辺りが下伝馬町と花陽院門前町の境にあたる。

伝馬町小前交差点から南方向突き当りに伝馬町小学校。江戸時代後期に榊原越中守の拝領屋敷があった。

国会図書館デジタルコレクション「第九拾六図 榊原越中守屋敷の図/ろ1」より引用
天保14年(1843年)に完成した「駿河雑志」にある榊原越中守屋敷の図。榊原越中守は江戸初期から久能山守衛総御門番を世襲で務めた家柄で、伝馬町小学校の敷地は拝領屋敷だったことがわかる。

下伝馬町の東海道を挟んで北側は花陽院門前町。当地にある華陽院を町名の由来とする。

花陽院門前町の由来となった華陽院。元は智源院と称し、後に家康の祖母源応尼の法名に因み改名された。源応尼の墓と家康の五女市姫の墓がある。

旧花陽院門前町の東海道から分かれる久能街道。江戸時代に東海道を往来する大名は、ここで東海道を分かれ久能街道を通って久能山の東照宮を参拝したという。

下伝馬町・花陽院門前町の東隣、鋳物師町。江戸時代初期に鋳物師が住んでいたことに町名は由来する。

鋳物師町を分断する”つつじ通り”と旧東海道が交差する横田町西交差点。

桜井蒟蒻店辺りが鋳物師町と上横田町の境(現 静岡市葵区横田町)。

院内町(現 静岡市葵区横田町)に鎮座する西宮神社。創建年不詳、安政3年(1856年)再建と伝わる。かつては参拝人に福銭という金を貸し、その金を財布に入れておけば金運上昇のご利益があったとか。金儲けできれば借りた金銭の倍返しする慣わしだったという。大正期以降に金銭を返さぬ人が多数現れたため廃止された。

金運上昇の神様に参拝しておこうと境内に入れば、社殿は改修中。

西宮神社境内より旧東海道方向。鳥居越しに見る旧東海道筋には原田だるま店の粋な佇まい。

猿屋町(現 静岡市葵区横田町)は今川氏の時代から猿引き(猿廻し)が住んでいたことに由来。

下横田町(現 静岡市葵区横田町)から音羽山清水寺に至る”きよみずさん通り”。

”きよみずさん通り”を歩いて音羽山清水寺の入口に。

音羽山清水寺は静岡市街の中心部に横たわる谷津山の西麓にあり、永禄2年(1559年)今川氏輝の遺命により家臣の朝比奈元長が創建した。開山は京都から迎えられた尊寿院大僧正道因と伝わる。それ以前の当地には永正年間(1504年~21年)に印融法印が開いた檀林(学問所)があった。山号・寺号の由来は開山した道因によるもので、眺望が京都の清水寺に似ており、故郷を偲んで名付けたと伝わる。

清水寺境内より参道。左手の松は”下乗の松”と呼ばれ、徳川家康が参拝に訪れた折、ここで馬を降りたという。

清水寺本堂。真言宗の寺院で、本尊は千手観音菩薩。

慶長7年(1602年)徳川家康により建立された観音堂。家康はしばしば清水寺へ参詣し、持念仏である千手観世音菩薩を納めたと伝わる。

境内(清水山公園)に散在する句碑。明和7年(1770年) 時雨窓が建てた芭蕉句碑が最初だという。
駿河路や はなたちばなも 茶のにほひ

清水寺境内に鎮座する熊野神社。

境内から山頂への登山道。

谷津山西端山頂の清水山公園。

山頂には清水山古墳がある。古墳時代後期(6世紀)以降に築かれた円墳。

清水寺の散策を終えて横田町東交差点から旧東海道に戻り。

府中宿江戸方(東側)端、下横田町(現 静岡市葵区横田町)の旧町名碑。

下横田町を行く旧東海道。

府宿江戸方(東側)出入口の東(横田)見付跡。元禄5年(1692年)に築かれ、往時には枡形と石垣が設けられていた。

東見付跡を江戸方の春日一丁目交差点より望む。右手の山が清水山公園。

旧東海道の北側を走る静岡鉄道清水線。

春日町駅を出発する列車。

春日一丁目交差点から江戸方。ここを進んで次の江尻宿へ向かう。
【2017年5月6日(土)旧東海道 府中宿→江尻宿】
前日に府中宿西見付跡から伝馬町まで散策し”くれたけインプレミアム静岡駅前”に宿泊、翌朝にしっかりバイキング形式の朝食を腹に仕込んで、朝一から再び伝馬町に立つ。天気も良く気温も最適で気分は上々、江戸方の江尻宿に向けて歩き旅をはじめよう。府中宿は本陣2軒と脇本陣2軒があった上・下伝馬町から江戸方に向かって花陽院門前町・鋳物師町・上横田町・院内町・猿屋町・下横田町と続く町並み。下伝馬町からは久能山・駿河湾へ通じる久能街道が分かれ、江戸時代に東海道を往来する大名は、ここで久能街道に入り東照宮に祀られる大権現を参拝した。府中宿江戸方端の下横田町には東見付が設けられ、その北側には永禄2年(1559年)に今川家家臣の朝比奈元長により創建された音羽山清水寺がある。開山は京都から迎えられた尊寿院大僧正動因と伝わり、ここから眺める眺望が京都の清水寺に似ていたことから同名の寺号を付けたという。

まずは伝馬町にある珠賀美神社に参拝し本日の安全を祈願。珠賀美神社は慶長19年(1614年)金剛山宝泰寺の鎮守として京都所司代板倉勝重が創建した牛頭天王社が始まりといわれる。宝暦8年(1758年)現在地に移転し、明治3年(1870年)現社号に改められた。

珠賀美神社にある久能山東照宮の石燈籠。駿府に鬼彦という怪力の者がおり、この石燈籠を天秤棒に担いで運んでいたところ、当地で天秤棒が折れてしまったため当神社に奉納されたとの伝説がある。

伝馬町の市街一角にありながら大きな敷地を持つ臨済宗の宝泰寺。江戸時代初期には七堂伽藍を備え、朝鮮通信使の休憩所にも使われた。伝馬町の東海道から南側一帯にはこの宝泰寺をはじめ、新光明寺、法傳寺が大きな境内を持ち並んでいた。

静岡マルイの建物の中に入っている法傳寺。かつては広い境内と数多くの伽藍を有する寺院だった。

東御門展示室に展示の「東海道分間延絵図」を基に作成
宝泰寺を筆頭に法傳寺や新光明寺も数多い伽藍を有する大きな寺院だったことをうかがう。

伝馬町の京方端にあたる伝馬町西交差点。

上本陣・望月重治右衛門家跡に建つトップセンタービル。

かつて府中宿上本陣を務めた望月家を偲ぶのは、その跡地に設けるこの標のみ。

下本陣・小倉平左衛門家(写真右手)と脇本陣清三郎家跡(写真左手)。やはりこちらも上本陣跡と同様にビルが建ち並び、往時を偲びようもない。

伝馬町東交差点から江戸方の旧東海道。

伝馬町小前交差点辺りが下伝馬町と花陽院門前町の境にあたる。

伝馬町小前交差点から南方向突き当りに伝馬町小学校。江戸時代後期に榊原越中守の拝領屋敷があった。

国会図書館デジタルコレクション「第九拾六図 榊原越中守屋敷の図/ろ1」より引用
天保14年(1843年)に完成した「駿河雑志」にある榊原越中守屋敷の図。榊原越中守は江戸初期から久能山守衛総御門番を世襲で務めた家柄で、伝馬町小学校の敷地は拝領屋敷だったことがわかる。

下伝馬町の東海道を挟んで北側は花陽院門前町。当地にある華陽院を町名の由来とする。

花陽院門前町の由来となった華陽院。元は智源院と称し、後に家康の祖母源応尼の法名に因み改名された。源応尼の墓と家康の五女市姫の墓がある。

旧花陽院門前町の東海道から分かれる久能街道。江戸時代に東海道を往来する大名は、ここで東海道を分かれ久能街道を通って久能山の東照宮を参拝したという。

下伝馬町・花陽院門前町の東隣、鋳物師町。江戸時代初期に鋳物師が住んでいたことに町名は由来する。

鋳物師町を分断する”つつじ通り”と旧東海道が交差する横田町西交差点。

桜井蒟蒻店辺りが鋳物師町と上横田町の境(現 静岡市葵区横田町)。

院内町(現 静岡市葵区横田町)に鎮座する西宮神社。創建年不詳、安政3年(1856年)再建と伝わる。かつては参拝人に福銭という金を貸し、その金を財布に入れておけば金運上昇のご利益があったとか。金儲けできれば借りた金銭の倍返しする慣わしだったという。大正期以降に金銭を返さぬ人が多数現れたため廃止された。

金運上昇の神様に参拝しておこうと境内に入れば、社殿は改修中。

西宮神社境内より旧東海道方向。鳥居越しに見る旧東海道筋には原田だるま店の粋な佇まい。

猿屋町(現 静岡市葵区横田町)は今川氏の時代から猿引き(猿廻し)が住んでいたことに由来。

下横田町(現 静岡市葵区横田町)から音羽山清水寺に至る”きよみずさん通り”。

”きよみずさん通り”を歩いて音羽山清水寺の入口に。

音羽山清水寺は静岡市街の中心部に横たわる谷津山の西麓にあり、永禄2年(1559年)今川氏輝の遺命により家臣の朝比奈元長が創建した。開山は京都から迎えられた尊寿院大僧正道因と伝わる。それ以前の当地には永正年間(1504年~21年)に印融法印が開いた檀林(学問所)があった。山号・寺号の由来は開山した道因によるもので、眺望が京都の清水寺に似ており、故郷を偲んで名付けたと伝わる。

清水寺境内より参道。左手の松は”下乗の松”と呼ばれ、徳川家康が参拝に訪れた折、ここで馬を降りたという。

清水寺本堂。真言宗の寺院で、本尊は千手観音菩薩。

慶長7年(1602年)徳川家康により建立された観音堂。家康はしばしば清水寺へ参詣し、持念仏である千手観世音菩薩を納めたと伝わる。

境内(清水山公園)に散在する句碑。明和7年(1770年) 時雨窓が建てた芭蕉句碑が最初だという。
駿河路や はなたちばなも 茶のにほひ

清水寺境内に鎮座する熊野神社。

境内から山頂への登山道。

谷津山西端山頂の清水山公園。

山頂には清水山古墳がある。古墳時代後期(6世紀)以降に築かれた円墳。

清水寺の散策を終えて横田町東交差点から旧東海道に戻り。

府中宿江戸方(東側)端、下横田町(現 静岡市葵区横田町)の旧町名碑。

下横田町を行く旧東海道。

府宿江戸方(東側)出入口の東(横田)見付跡。元禄5年(1692年)に築かれ、往時には枡形と石垣が設けられていた。

東見付跡を江戸方の春日一丁目交差点より望む。右手の山が清水山公園。

旧東海道の北側を走る静岡鉄道清水線。

春日町駅を出発する列車。

春日一丁目交差点から江戸方。ここを進んで次の江尻宿へ向かう。

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