江尻宿
【2017年5月6日(土)旧東海道 江尻宿】

東海道五十三次之内江尻 三保遠望
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「江尻宿」より引用
江尻宿は江戸日本橋から東海道五十三次を18宿目、京都三条大橋から36宿目。今川氏時代には商人宿で月に3回の定期市が立ち三日市場とも称した。武田信玄が駿河侵攻を開始して今川氏を退けると、当地に江尻城が築かれ城下町として発展する。江戸時代になって江尻城が廃城になり東海道の宿場町へと変貌を遂げ、巴川を使った清水湊との海運とともに賑わいをみせた。宿場町は江尻町を中心に東の辻村、西の入江町から成り、宿内町並み東西13町(約1.4km)、天保14年(1843年)当時の宿付・加宿を含めた人口は6498人、家数1340軒、うち本陣2、脇本陣3、旅籠屋50軒。町並みは西の入江町から巴川に架かる稚児橋を渡り、左岸に沿って魚町・中町・下町と並び、伝馬町で北へ折れて鋳物師町・鍛冶町・本郷町・辻村と続く。名物は追分羊かん、豊心丹、羽衣餅。広重は「東海道五十三次之内江尻 三保遠望」の題で宿場から三保の松原を遠望する風景を描いている。

江尻宿京方出入口だった西木戸跡。

街灯脇にひっそりと立つ江尻宿木戸跡碑。

西木戸跡北側にある樹林山慈雲禅寺。宝永4年(1707年)の地震で堂宇が悉く倒壊焼失、宝暦年間(1751年~63年)に長泉智牛和尚が再興したと伝わる。長泉智牛和尚は痩せ地に悩む三保の農民にサツマイモの栽培を奨励、砂地でもよく育ったことから三保全土に広がり、農民たちから慈雲寺の芋和尚と呼ばれ親しまれた。

入江2丁目を行く旧東海道(京方)。”ちびまる子ちゃん”の家はここ入江町にある設定であることを知り、感慨にふけてしまう。

旧東海道から延びる法岸寺参道。

法岸寺本堂左奥にある浄瑠璃「朝顔日記」深雪の墓。日向高鍋藩主秋月種長の娘で、清水船手奉行の旗本山下周勝の夫人が深雪のモデルとされる。寛永18年(1642年)没、当寺に葬られた。

入江2丁目交差点。左方向が旧東海道(江戸方)、右が清水湊へ通じる清水道。

入江2丁目交差点より清水道を望む。

巴川に架かる稚児橋。

東海道五十三次が整備された江戸時代初期、街道筋の巴川に橋が架けられ江尻橋と名付けられる。渡り初めのときに川の中から童子が現れ、橋脚を登たっと思いきや忽然と入江方面に消え失せた。この一事がきっかけになり稚児橋と名が変えられたという。この童子は巴川に棲む河童だったと語り継がれている。

稚児橋より巴川下流を望む。今もここに河童が棲んでいるのだろうか。

稚児橋北詰より魚町の町並み。

魚町交差点で旧東海道は右折。右に直進してすぐ左手が問屋場跡、左折は入小路で江尻城へと向かう。

魚町交差点から入小路(正面左方向)を望む。

入小路の突き当りに鎮座する魚町稲荷神社。武田家家臣で江尻城代の穴山信君(梅雪)が社殿を造営したと伝わる。

社殿前にある日本少年サッカー発祥の碑。江尻小学校は昭和31年(1956年)に日本で初めて少年サッカーチームが結成されたところで、これを記念して平成11年(1999年)にサッカーボールの石碑が設けられた。江尻の地は静岡をサッカー王国と呼ぶ所以といえる場所なのだ。Jリーグ発足当初から加盟する清水エスパルスは誰もが知っているサッカーチーム。ここに在籍した選手を思い浮かべてみたら、沢登に長谷川健太、三浦泰年なんだよなあ…、記憶が古くてスミマセン。余談ながら、武田信玄に駿河を追われた今川氏真は、蹴鞠の名手だったとか。

江尻小学校は武田信玄が築かせた江尻城の跡地に建っている。

魚町交差点から中町への町並み。古くは魚町・中町・下町の3ヶ町を江尻町といい、宿場の中心をなした。

橋本本陣跡。鯨の石像モニュメントが目印。

寺尾本陣跡。橋本本陣から街道を挟んで斜向かいにあり、現在は跡地に「江尻宿寺尾本陣跡」碑が置かれている。

セブンエビスの左隣辺りが大竹屋脇本陣跡。

柳橋からの通りと旧東海道の交差点南側が羽根本陣跡。

羽根本陣跡から街道を挟んで向かい、杉山洋品店の場所が府中屋脇本陣跡(写真右手前)。

江尻宿下町の町並み。

翁屋脇本陣跡(写真右手辺り)。跡地一帯に建つ変則3・4階建てビルは1階部分が商店街、2階部分が道路側にはみ出す変わった構造。

下町と伝馬町の境をなした四つ辻。かつては手前が下町、左折した先から伝馬町で、右に曲がれば七軒町の町並みが巴川まで続いた。

江尻宿伝馬町を行く旧東海道。

江尻東3丁目の南西一角に大きな敷地を持つ江浄寺。

江浄寺境内にある岡崎三郎信康(松平信康、徳川家康の長男)の供養塔。信康の傅役だった榊原清政が建立したもの。

旧伝馬町で目に留まった小林銅鉄店。”鉄”が旧字体だったので。

伝馬町荒神社。江浄寺28代住職金誉(こんよ)上人が荒神を祀ったのが始まりと伝わる。

江尻宿鍛冶町(現 静岡市清水区江尻東1丁目)の町並み。かつては鍛冶職人が多く住んでいた。

鍛冶町より京方、鋳物師町方向。

江尻東交差点。鍛冶町と本郷町の境をなす。

本郷町を行く旧東海道。沿道に旧商家の建物が見られる。

江尻宿の江戸方出入口、東木戸跡。本郷町と宿付だった辻村の境をなした。

辻村(現 静岡市清水区辻)の町並み。

かつてはヤマザキショップの所で辻村の家並みが途絶え、この先から細井の松原と呼ばれる松並木が続いていた。

細井の松原跡にある旅館かど松。

旧東海道が国道1号に合流する地点にある”ほそいの松”。平成4年(1992年)植樹されたもの。細井の松原は戦時中に松根油採取のために全て伐採されてしまった。

辻町の旧東海道と国道1号の合流地点で今回の歩き旅は終わり。清水駅に向けて歩みを反転する。

JR清水駅西口。

清水と言えばやはり”ちびまる子ちゃん”。作者の”さくらももこ”さんは旧清水市(現 静岡市清水区)の出身。

清水駅東口より富士山方面を望む。

富士山は山裾が少し見えただけ…。

清水駅で待機するマルチプルタイタンパー(09-16 CSM)。これは保線用の機械。

清水駅を彩る花畑。

最後は清水駅夕景で。
【旧東海道歩き 第27日目】くれたけインプレミアム静岡駅前→府中宿→江尻宿→清水駅 歩行距離約17km

東海道五十三次之内江尻 三保遠望
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「江尻宿」より引用
江尻宿は江戸日本橋から東海道五十三次を18宿目、京都三条大橋から36宿目。今川氏時代には商人宿で月に3回の定期市が立ち三日市場とも称した。武田信玄が駿河侵攻を開始して今川氏を退けると、当地に江尻城が築かれ城下町として発展する。江戸時代になって江尻城が廃城になり東海道の宿場町へと変貌を遂げ、巴川を使った清水湊との海運とともに賑わいをみせた。宿場町は江尻町を中心に東の辻村、西の入江町から成り、宿内町並み東西13町(約1.4km)、天保14年(1843年)当時の宿付・加宿を含めた人口は6498人、家数1340軒、うち本陣2、脇本陣3、旅籠屋50軒。町並みは西の入江町から巴川に架かる稚児橋を渡り、左岸に沿って魚町・中町・下町と並び、伝馬町で北へ折れて鋳物師町・鍛冶町・本郷町・辻村と続く。名物は追分羊かん、豊心丹、羽衣餅。広重は「東海道五十三次之内江尻 三保遠望」の題で宿場から三保の松原を遠望する風景を描いている。

江尻宿京方出入口だった西木戸跡。

街灯脇にひっそりと立つ江尻宿木戸跡碑。

西木戸跡北側にある樹林山慈雲禅寺。宝永4年(1707年)の地震で堂宇が悉く倒壊焼失、宝暦年間(1751年~63年)に長泉智牛和尚が再興したと伝わる。長泉智牛和尚は痩せ地に悩む三保の農民にサツマイモの栽培を奨励、砂地でもよく育ったことから三保全土に広がり、農民たちから慈雲寺の芋和尚と呼ばれ親しまれた。

入江2丁目を行く旧東海道(京方)。”ちびまる子ちゃん”の家はここ入江町にある設定であることを知り、感慨にふけてしまう。

旧東海道から延びる法岸寺参道。

法岸寺本堂左奥にある浄瑠璃「朝顔日記」深雪の墓。日向高鍋藩主秋月種長の娘で、清水船手奉行の旗本山下周勝の夫人が深雪のモデルとされる。寛永18年(1642年)没、当寺に葬られた。

入江2丁目交差点。左方向が旧東海道(江戸方)、右が清水湊へ通じる清水道。

入江2丁目交差点より清水道を望む。

巴川に架かる稚児橋。

東海道五十三次が整備された江戸時代初期、街道筋の巴川に橋が架けられ江尻橋と名付けられる。渡り初めのときに川の中から童子が現れ、橋脚を登たっと思いきや忽然と入江方面に消え失せた。この一事がきっかけになり稚児橋と名が変えられたという。この童子は巴川に棲む河童だったと語り継がれている。

稚児橋より巴川下流を望む。今もここに河童が棲んでいるのだろうか。

稚児橋北詰より魚町の町並み。

魚町交差点で旧東海道は右折。右に直進してすぐ左手が問屋場跡、左折は入小路で江尻城へと向かう。

魚町交差点から入小路(正面左方向)を望む。

入小路の突き当りに鎮座する魚町稲荷神社。武田家家臣で江尻城代の穴山信君(梅雪)が社殿を造営したと伝わる。

社殿前にある日本少年サッカー発祥の碑。江尻小学校は昭和31年(1956年)に日本で初めて少年サッカーチームが結成されたところで、これを記念して平成11年(1999年)にサッカーボールの石碑が設けられた。江尻の地は静岡をサッカー王国と呼ぶ所以といえる場所なのだ。Jリーグ発足当初から加盟する清水エスパルスは誰もが知っているサッカーチーム。ここに在籍した選手を思い浮かべてみたら、沢登に長谷川健太、三浦泰年なんだよなあ…、記憶が古くてスミマセン。余談ながら、武田信玄に駿河を追われた今川氏真は、蹴鞠の名手だったとか。

江尻小学校は武田信玄が築かせた江尻城の跡地に建っている。

魚町交差点から中町への町並み。古くは魚町・中町・下町の3ヶ町を江尻町といい、宿場の中心をなした。

橋本本陣跡。鯨の石像モニュメントが目印。

寺尾本陣跡。橋本本陣から街道を挟んで斜向かいにあり、現在は跡地に「江尻宿寺尾本陣跡」碑が置かれている。

セブンエビスの左隣辺りが大竹屋脇本陣跡。

柳橋からの通りと旧東海道の交差点南側が羽根本陣跡。

羽根本陣跡から街道を挟んで向かい、杉山洋品店の場所が府中屋脇本陣跡(写真右手前)。

江尻宿下町の町並み。

翁屋脇本陣跡(写真右手辺り)。跡地一帯に建つ変則3・4階建てビルは1階部分が商店街、2階部分が道路側にはみ出す変わった構造。

下町と伝馬町の境をなした四つ辻。かつては手前が下町、左折した先から伝馬町で、右に曲がれば七軒町の町並みが巴川まで続いた。

江尻宿伝馬町を行く旧東海道。

江尻東3丁目の南西一角に大きな敷地を持つ江浄寺。

江浄寺境内にある岡崎三郎信康(松平信康、徳川家康の長男)の供養塔。信康の傅役だった榊原清政が建立したもの。

旧伝馬町で目に留まった小林銅鉄店。”鉄”が旧字体だったので。

伝馬町荒神社。江浄寺28代住職金誉(こんよ)上人が荒神を祀ったのが始まりと伝わる。

江尻宿鍛冶町(現 静岡市清水区江尻東1丁目)の町並み。かつては鍛冶職人が多く住んでいた。

鍛冶町より京方、鋳物師町方向。

江尻東交差点。鍛冶町と本郷町の境をなす。

本郷町を行く旧東海道。沿道に旧商家の建物が見られる。

江尻宿の江戸方出入口、東木戸跡。本郷町と宿付だった辻村の境をなした。

辻村(現 静岡市清水区辻)の町並み。

かつてはヤマザキショップの所で辻村の家並みが途絶え、この先から細井の松原と呼ばれる松並木が続いていた。

細井の松原跡にある旅館かど松。

旧東海道が国道1号に合流する地点にある”ほそいの松”。平成4年(1992年)植樹されたもの。細井の松原は戦時中に松根油採取のために全て伐採されてしまった。

辻町の旧東海道と国道1号の合流地点で今回の歩き旅は終わり。清水駅に向けて歩みを反転する。

JR清水駅西口。

清水と言えばやはり”ちびまる子ちゃん”。作者の”さくらももこ”さんは旧清水市(現 静岡市清水区)の出身。

清水駅東口より富士山方面を望む。

富士山は山裾が少し見えただけ…。

清水駅で待機するマルチプルタイタンパー(09-16 CSM)。これは保線用の機械。

清水駅を彩る花畑。

最後は清水駅夕景で。
【旧東海道歩き 第27日目】くれたけインプレミアム静岡駅前→府中宿→江尻宿→清水駅 歩行距離約17km

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