碓氷峠越え⑤

栗が原で明治天皇御巡幸道が左から合流してくる。明治8年(1875年)明治天皇北陸巡幸の際に設けられた道で、ここに交番の前身である見回り方屯所が設置された。現在、御巡幸道は通行不能。

「入道くぼ」の説明板が立てられている所に線刻馬頭観世音がある。ここから赤土のだらだらした下りが続く馬込(まごめ)坂。説明板を読んでも「入道くぼ」とは何のことなのかよくわからない。手前の深い切通し道のことを指すのだろうか。

馬込坂の先には山中茶屋跡。峠の中心にあった茶屋で、寛文2年(1662年)には13軒の立場茶屋や寺、茶屋本陣が置かれ集落を形成した。明治期には学校もでき、明治11年(1878年)明治天皇御巡幸の際には、児童が25人いたので25円の下附があった。
道を離れ集落の中へ入ってみる。集落跡には石垣や墓が残骸のように残され、一体の地蔵が遠く山を見つめている。その背中がなんとも寂しく、在りし日の賑わいに思いをはせるかのようにたたずんでいた。

山中坂を登る。この坂は飯喰い坂とも呼ばれ、ここを登る旅人は空腹ではとても登りきれない長く急な坂だったので、山中茶屋で腹ごしらえをしたという。山中茶屋の繁盛はこの坂にあったようだ。
山中集落の人々は、なぜこんな山奥で営みを続けていたのか、疑問であったが、あなるほど合点がいった。これはスキー場やゴルフ場で缶ジュースが200円で売っているのと同じことなのだ。他に買うところがなければ市場原理が働かず、倍くらいの値段をつけても売れてしまうのだ。先に控えた山中坂の難所が旅人の財布の紐を緩めさせたのであろう。意外に良い商いができたのではなかろうか。

一つ家跡。説明書きが意味深なのでそのまま紹介する。
「ここには老婆がいて、旅人を苦しめたと言われている。」
意地悪ばあさんが住んでいたのだろうか。昨年末にお亡くなりになられた元東京都知事の青島幸男さんが脳裏に浮かぶ。
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