外国府間と内国府間

【2009年7月25日(土) 旧日光街道 幸手宿→栗橋宿】
行幸橋で中川を渡り外国府間の旧日光街道を歩く。
外国府間と書いて”そとごうま”と読ませる難読な地名であるが、行幸橋(中川)から北側の幸手市最北端部に位置し、日光街道から筑波道が分岐する場所だった。ちなみに行幸橋から南側は内国府間(うちごうま)という地名であり、ちょっと地名の由来が気になったので調べてみることに。

インターネットを駆使して外国府間・内国府間という地名の由来を調べてみたが、満足の得られる情報がヒットせずよくわからない。奈良時代から平安時代にかけて築かれた国府と関係があるのは想像がつくので、学生時代に愛用の高等地図帳をペラペラとめくってみると、やはりな感じだがその由来らしき理由に気付いた。下の地図を見てほしい。幸手市は下野国分寺(栃木県下野市)と下総国分寺(千葉県市川市)・武蔵国分寺(東京都国分寺市)のほぼ中間に位置しているということだ。
関東の国分寺配置図

国分寺は国分尼寺と共に聖武天皇の命によって律令国の各地に築かれた寺院。それぞれ国府の傍に置かれたというから、下野国府と下総国府・武蔵国府を結ぶ古代の官道がここ幸手市を通っていたことを意味しており、外国府間・内国府間という地名がそれを裏付けている。という、浅はかな推測で結論付けてしまったが、あながち間違いではないだろう。何ゆえ、国府間が”内””外”に分けられたのかは不明であるが・・・。国府については以前に書いた記事「垂井宿」に、美濃国府について少々書いたので参照してみて下さい。


中川と行幸橋
中川を行幸橋で越える。橋の北詰で国道4号を離れて左の小径へ。


外国府間を行く旧日光街道
外国府間を行く旧日光街道。車の喧騒から離れ、静かな道を歩けて心地よい。


日光街道・筑波道追分
日光街道と筑波道の追分。直進の道が日光街道、右に分岐する道が筑波道で霊峰として仰がれた筑波山へ続いていた。分岐点に安永4年(1775年)建立の道標が残されている。


外国府間の道標 日光街道・筑波道分岐02
日光街道・筑波道の分岐点に残る道標。「右 つくば道」「左 日光道」と刻まれているのだが、つくば道の”つ”は”津”と表記されているように見える。ここから分岐する筑波道は、80m程行った先で行幸堤上を通る国道4号に遮られる。


吉羽屋商店
外国府間の吉羽屋酒店。コンビニが乱立するこの現代で、こういったノスタルジックな店構えは貴重な存在である。


雷電社湯殿社合殿
雷電社湯殿社合殿(雷電宮・権現宮が合祀される神社)を西側へ迂回するように旧日光街道は北へ進む。この神社も前の記事「権現堂堤」の中で少々触れたが、近年(平成13年)の不審火によって焼失してしまった神社。これは木造建築の宿命なのだろうか・・・。社殿は翌年の平成14年に再建された。


旧日光街道・外国府間
田園の中を歩いて幸手市外国府間から栗橋町へ。


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権現堂堤

【2009年7月25日(土) 旧日光街道 幸手宿→栗橋宿】
春には桜と菜の花のツートンカラーが美しく堤を覆い、多くの花見客が訪れて賑わう権現堂堤。その歴史は古く、天正年間(1573年〜1593年)には権現堂川の堤防として築かれていたといわれる。その権現堂川も利根川や江戸川の流路変更によって、現在は権現堂調節池(行幸湖)となって名残りを留めるにすぎないが、古くは利根川と江戸川という関東平野の動脈を繋ぐ河川であり、幾度も堤防を決壊させ暴れ川として恐れられてきた。江戸が日本の中枢都市として発展するにつれ、権現堂川から下流域を守る堤防の重要性は増し、補強や延伸が図られ権現堂堤は規模を大きくしていったようだ。

権現堂堤は既に大正時代から桜が植えられ花見の名所となっていたが、昭和初期に権現堂川が廃川となって権現堂堤の意義が失われたうえ、第二次世界大戦末期には物資欠乏によって多くの桜が伐採され燃料に使われてしまった。そんな荒れ果てた権現堂堤が再び桜堤として復活するのは、戦争も終わり一段落をつけた1949年(昭和24年)のことで、旧権現堂川堤防のうち中川の堤防として残った約1kmに渡り、改めてソメイヨシノが植樹され関東有数の桜の名所と言われるまでになった。


旧日光街道・幸手市北
幸手宿を出た旧日光街道は権現堂河岸へと続く道と分岐する。写真左方向の道が栗橋方面へ向かう旧日光街道で、右方向の道を行けば権現堂河岸へ至る。かつては権現堂河岸を往来する荷車が所狭しと行き交ったのだろう。


旧日光街道・幸手市北
幸手市北を行く県道岩槻幸手線。


日光街道道路標識
淡々と続く県道を歩いていると、所々で見かけるのがこの道路標識。日光街道を歩いているんだ!と、改めて意識させてくれる。間もなく県道は国道4号と合流する。


内国府間八幡神社
県道岩槻幸手線と国道4号の合流点付近に鎮座する内国府間の八幡神社。一昨年の不審火で社殿が全焼してしまい、去年の暮れに新社殿が再建された。旧街道を歩いていると沿道の神社仏閣に立ち寄る機会が多いのだが、近年に神社が焼失・・・なんて事が意外に多いよう思う。杉戸の近津神社、北本の東間浅間神社・・・惜しいことだ。


国道4号・内国府間
内国府間を行く国道4号。権現堂桜堤の西端にあたる行幸橋まで一気に歩こう。


権現堂桜堤
青々と葉が生い茂る権現堂桜堤。桜の季節にはあまりにも遅すぎた。


行幸堤之碑
権現堂桜堤の西端、行幸橋の袂に建てられている行幸堤(みゆきづつみ)之碑。明治8年(1875年)新堤防(*注)が造成された翌年、東北巡幸の際に立ち寄った明治天皇が、その労に報いるため労働者の名前を刻んだ石碑を残すように言われ、費用の一部が下賜されて建てられたのがこの石碑。以来、この新堤防は行幸堤と呼ばれるようになった。

(*注)現在の権現堂桜堤西端から権現堂川西岸の北方向へ築かれた堤防。


中川と権現堂堤
行幸橋から中川と権現堂桜堤を望む。


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幸手宿

【2009年7月25日(土) 旧日光街道 幸手宿】
日光街道・奥州街道の第六宿となる幸手宿。宿場外れの南側道中で日光街道と日光御成道が合流し、更に宿場を挟んだ北側の道中で筑波道が分岐する交通の要衝として発展してきた。宿場付近の権現堂河岸には江戸舟運の廻船問屋が軒を連ね、物流の中継地として多くの人や物が往来し、宿場は大いに賑わったのだろう。天保14年(1843年)当時の幸手宿は宿長さ南北9町45間(約1km)、人口3937人、家数962軒、本陣1、脇本陣1、旅籠27軒。両隣の杉戸宿や栗橋宿と比較すると、2倍以上の宿場規模を誇っていたことがわかる。

”幸手”と書いて”さって”と読むのだが、地名の由来について少しだけ。縄文・弥生時代の埼玉県南東部は古東京湾の入り江が大きく入り込んだ地形で、海抜の低い幸手辺りの大分部は海だったわけである。そこに”薩手が島”と呼ばれる島があり、日本武尊が東征の折に上陸し、田宮の雷電神社(幸手市中4丁目)に建御雷の神を祀ったと伝わっている。”幸手”の地名はこの”薩手”に由来があるとされるのだが、いつから”幸手”の文字が使われるようになったのかは定かでない。


倉松川と志手橋
倉松川を志手橋で越えて幸手宿内へ。


神明神社とたにし不動尊
幸手宿の南側入口に鎮座する神明神社。境内に菅谷不動尊こと、通称田螺(たにし)不動尊が安置されている。たにしの描かれた絵馬を奉納すると眼病が治るというご利益があるとされる。


幸手宿南側の町並み
幸手宿南側(旧 右馬之助町)の町並み。


幸手宿にて
幸手駅入口交差点付近にある商家風の古建築。以前は何らかの店を営んでいたようだが、今は営業をしている感じではない。幸手宿を偲ばせる数少ない佇まい、願わくは取り壊しなんてことにならないでほしい。


幸手宿・幸手駅入口交差点 明治天皇行在所説明板
幸手駅入口交差点とその角にある明治天皇行在所説明板。この説明板(台と屋根部分は復元)は昭和10年(1935年)文部省によって設置されたもで、文字は全く読み取れなくなっているが、近年に幸手市教育委員会によって設置された説明板に内容が記されている。「明治十四年山形秋田両縣及北海道巡幸の際七月三十一日 同御還幸の砌 十月十日行在所となり・・・云々」


陣屋稲荷
幸手駅入口交差点を左折して駅方向へ行くと、陣屋稲荷(別名を一色稲荷という)が鎮座している。幸手駅付近一帯は古河公方足利氏の家臣一色氏が館を構えた跡といわれ、陣屋稲荷は一色氏の守護神として祀られた氏神と伝わる。


幸手宿
中1丁目・中2丁目の幸手宿町並み。左に見える”旅館あさよろず”は文政2年(1819)創業というから、旅籠の時代から旅館業を続ける老舗旅館。しかしながら、建物がリニューアルされてその長い歴史を感じさせないのは残念だが、裏門に江戸時代から続く面影を留めている。


旅館あさよろずの裏門
これが”旅館あさよろず”の裏門。旅籠だった時代を偲ばせる佇まい。


幸手宿問屋場跡
中央商店街ポケットパークの敷地が問屋場跡。日光道中各宿場の問屋場は人足25人・馬25頭の常駐が義務づけられていた。ちなみに中山道は人足50人・馬50頭、東海道が人足100人・馬100頭が常備されていたというから、問屋場役のその労苦たるや並大抵のものではなかったのだろう。


幸手宿本陣跡
写真左、文房具屋の隣が幸手宿本陣知久家跡。現在は”割烹蒲焼 義語家”という和食屋になっている。知久家は幸手宿の本陣・問屋・名主という三役を務めた家柄で、明治初期に宿駅制が廃止されるまで代々本陣を務めた。


関薬局
関薬局本店。現代的な外壁の裏に商家だった宿場時代の面影が見え隠れしている。


幸手宿・荒宿
幸手宿の北側、荒宿の町並み。


聖福寺
日光社参で往来する歴代将軍や例幣使(天皇が祭礼時に遣わせる使者)の休憩地として利用された聖福寺。勅使門は約350年前に建てられたもので、将軍や例幣使の来訪時にしか開かれなかった。


幸手一里塚跡
幸手宿内を貫いてきた旧日光街道は、正福寺参道前から右折して左折という宿場の出入口らしい枡形の道筋を辿る。ここに江戸日本橋から12里目(約47km)の幸手一里塚が築かれていた。遺構は存在せず、説明板が跡地に立てられている。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
千葉県在住。

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現在の行程

日光街道概略地図 日光街道を歩いてます。
出発地:江戸日本橋
目的地:下野国鉢石宿(日光)

現在地:宇都宮宿(栃木県宇都宮市)

高札場
【 日光街道 旅の記録 】

1日目(2009/5/2) 日本橋→千住宿→草加宿 MAP

2日目(2009/5/3) 草加宿→越ヶ谷宿→粕壁宿→杉戸宿 MAP


3日目(2009/7/25) 杉戸宿→幸手宿→栗橋宿→中田宿→古河宿 MAP


4日目(2009/8/22) 古河宿→野木宿→間々田宿→小山宿

5日目(2009/10/4) 小山宿→新田宿→小金井宿→石橋宿

6日目(2009/10/25) 石橋宿→雀宮宿→宇都宮宿


【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13(月)
江戸日本橋を発ってから・・・
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋
応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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