富士を仰ぎ見ながら
【2018年2月11日(日)旧東海道 蒲原宿→吉原宿】
富士川から次の吉原宿へ向けて。岩淵から富士川を渡って対岸、旧東海道は雁堤(かりがねづつみ)の南辺側を通って松岡から柚木に。雁堤は江戸時代初期に富士川左岸の水田地帯を水害から守るために築かれた堤防で、その全貌が群れをして飛ぶ雁の姿に似ていることから、雁堤という名で呼ばれるようになったという。しかし建造当時、度重なる洪水から決壊を繰り返しため、人柱を立て神仏の駕籠にすがったとの悲しい伝説も残す。柚木をからの旧東海道は平垣(へいがき)、立場を置いた本市場、潤井川右岸の柚木、対岸に渡って高島、青嶋を経て吉原宿に入ってゆく。

静岡県道396号(東海道)に架かる四丁河原歩道橋。ここから旧道が北(左)方向に分かれる。

四丁河原歩道橋より富士川(京方)方向。江戸時代の東海道はここから200m程先で南西(左斜め)方向に進み渡船場に向かっていた。明治期になって直進する道に付け替えられ、江戸期の旧道は消失している。

四丁河原(富士市松岡)を行く旧東海道。

富士を仰ぎ見ながら。

雁堤の南東端、曲がり角にある橋下区公会堂。左手の堤上に護所神社が鎮座。

人柱伝説を今に伝える護所神社。境内に人柱供養塔がある。江戸時代初期、雁堤の築造がはじめられて50年が経ち、それでも富士川の洪水で決壊流失を繰り返したことから、富士川を渡ってくる千人目の旅人を人柱に立て神仏の加護にすがることを計画。そして千人目となったのが旅の僧で、この事情を聞いた僧は快諾して生きたまま人柱として身を捧げた。以来三百有余年、雁堤は決壊することなく今日に至っているという。

護所神社から富士川に向かって延びる南辺の雁堤。

雁堤と富士山。

雁堤より富士山と岩本山を望む。

富士山はやっぱ何度見てもいい。日本人に生まれてよかったと思うからである。10年以上前に暴風雨の中、這う這うの体で私はあのてっぺんまで登ったことを思い出す。ご来光は拝めなかったが、登頂した経験が今の富士山を仰ぎ見る心境に大きな影響を与えていると思う。

旧東海道に歩みを戻し、四丁河原・橋下の旧道から県道396号に合流。その合流地点には秋葉山常夜燈と道標を残す。

橋下の道標と秋葉山常夜燈。道標には「左東海道」と刻まれる。常夜燈は慶応元年(1865年)建立。

柚木を行く県道396号(東海道)。

JR身延線・柚木駅。

柚木区公会堂。隣りに天白神社が鎮座。

柚木区公会堂の少し先で県道から旧道が右手に分かれる。

車の喧騒を離れて静かな柚木の旧東海道。

柚木の旧東海道沿いに残る秋葉山常夜燈。

柚木から平垣(へいがき)町に。ふるいや旅館前を行く旧東海道。

平垣札の辻跡。用水路に架かる橋は札の辻橋と呼ばれる。

札の辻跡より南側より北方向。交差点角には大正5年(1916年)に建立された「札の辻跡」碑を残す。ここは實相寺参道と旧東海道が交差する地点にあたり、平垣村の高札場が置かれたことから”札の辻”と呼ばれた。實相寺は平安時代に鳥羽法皇勅願の寺で、西に比叡山、東に實相寺と言われる程の名刹、方一里と言われた敷地はここ”札の辻”まで及んでいたという。

富士大通りの交差点角に並び建つ栄立寺(写真手前)、金正禅寺(写真奥)。

金正禅寺山門。江戸時代中期の宝暦年間、荒廃していた金正禅寺は再興されるのだが、これに尽力したのが平垣村の松永家で、寺の西隣りにあるフジホワイトホテルの敷地一帯を屋敷地に持つ豪農だったという。

平垣本町を行く旧東海道。

平垣本町から本町へ。富士本町通りの商店街を横切り。

富士税務署前の旧東海道。前方には王子マテリア富士工場の煙突。

本市場一里塚跡。江戸日本橋から36里(約141km)、京三条大橋からは79番目で実測約377km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる。

本市場一里塚の跡地には”本市場一区協力の園”、一角に「旧東海道一里塚」碑を置く。

本市場一里塚の先で県道396号(東海道)を横切る。この辺りから間の宿として栄えた本市場の町家が軒を連ね、左手に小休本陣があった。

本市場町にある法源寺。富士山をバックに。

本市場を行く旧東海道。右手前が鶴の茶屋跡で、文政3年(1820年)に建立された鶴芝の碑が残る。当時、ここから富士山を眺めると山腹に鶴が舞うに見えたことから、その奇観を京の画家”盧洲”が描き残した。これに江戸の学者・亀田鵬斉が詩文を添えて鶴芝の碑が建立された。

これが鶴芝の碑。

鶴芝の碑付近から望む富士山。残念ながら残雪に鶴が舞う奇観は見られなかった。そりゃそうだな…。

総合庁舎北交差点。

本市場から蓼原町に入り、山神社バス停。

蓼原の単体道祖神。ここが旧蓼原村の川原宿にあたることから川原宿の単体道祖神とも。通称を”袂の塞神(さえがみ)”、塀の中で今も道行く人を見守る。

潤井(うるい)川に架かる富安橋。古くは三度橋という橋が架けられていた。江戸時代に江戸と上方を月に3往復する”三度飛脚”を生業とする”三度屋”という問屋があり、青島・高島・蓼原村の3ヶ村の要請で建設費用に42両もの大金を出したことから、三度橋と名付けられたという。

富安橋東詰、旧東海道は右折し。

県道396号(東海道)に合流。

高島交差点で旧道は県道を左斜めに分かれ、高島町から青島町に。

青島町の旧道路傍にポツンと道祖神。

碑面に大きく「道祖神」と刻む。はっきりしないが、碑面右端には明治廿九年と見える。

青嶋八幡宮神社参道。

参道入口にある荒田嶋庚申道標。碑面には「是より荒田嶋庚申江道法六丁」と刻む。天明3年(1783年)建立。

青嶋八幡宮神社。別名を”磔八幡”と言う。この神社の起源は江戸時代初期に青島村の名主を務めていた川口家の屋敷神にあると伝わる。五代将軍綱吉の時代、村民か高潮等の被害で苦しい生活を強いられる中、過酷に行われた検地を、時の名主川口市郎兵衛は村民の生活を守るために断固として拒否。この行動によって幕府の役人に捕らえられ磔刑に処せられた。これを知った村民は恩に報いようと市郎兵衛の御霊を八幡神社に合祀し、以来”磔八幡”と呼び祀ってきたという。

青島町を行く旧東海道。

永田町に入ってすぐ、旧東海道は青葉通りの大道に分断消失。

反対(江戸方)側に移動して蒲原宿(京)方の分断地点を望む。

青葉通り付近の旧東海道は、昭和41年(1966年)市町合併による区画整理事業で消失。現在はこれを偲んで跡地に解説板を設け、青島町で使われていた石橋の石を敷く。

錦町で現れた旧東海道(江戸方)。もうすぐ吉原宿だ。
富士川から次の吉原宿へ向けて。岩淵から富士川を渡って対岸、旧東海道は雁堤(かりがねづつみ)の南辺側を通って松岡から柚木に。雁堤は江戸時代初期に富士川左岸の水田地帯を水害から守るために築かれた堤防で、その全貌が群れをして飛ぶ雁の姿に似ていることから、雁堤という名で呼ばれるようになったという。しかし建造当時、度重なる洪水から決壊を繰り返しため、人柱を立て神仏の駕籠にすがったとの悲しい伝説も残す。柚木をからの旧東海道は平垣(へいがき)、立場を置いた本市場、潤井川右岸の柚木、対岸に渡って高島、青嶋を経て吉原宿に入ってゆく。

静岡県道396号(東海道)に架かる四丁河原歩道橋。ここから旧道が北(左)方向に分かれる。

四丁河原歩道橋より富士川(京方)方向。江戸時代の東海道はここから200m程先で南西(左斜め)方向に進み渡船場に向かっていた。明治期になって直進する道に付け替えられ、江戸期の旧道は消失している。

四丁河原(富士市松岡)を行く旧東海道。

富士を仰ぎ見ながら。

雁堤の南東端、曲がり角にある橋下区公会堂。左手の堤上に護所神社が鎮座。

人柱伝説を今に伝える護所神社。境内に人柱供養塔がある。江戸時代初期、雁堤の築造がはじめられて50年が経ち、それでも富士川の洪水で決壊流失を繰り返したことから、富士川を渡ってくる千人目の旅人を人柱に立て神仏の加護にすがることを計画。そして千人目となったのが旅の僧で、この事情を聞いた僧は快諾して生きたまま人柱として身を捧げた。以来三百有余年、雁堤は決壊することなく今日に至っているという。

護所神社から富士川に向かって延びる南辺の雁堤。

雁堤と富士山。

雁堤より富士山と岩本山を望む。

富士山はやっぱ何度見てもいい。日本人に生まれてよかったと思うからである。10年以上前に暴風雨の中、這う這うの体で私はあのてっぺんまで登ったことを思い出す。ご来光は拝めなかったが、登頂した経験が今の富士山を仰ぎ見る心境に大きな影響を与えていると思う。

旧東海道に歩みを戻し、四丁河原・橋下の旧道から県道396号に合流。その合流地点には秋葉山常夜燈と道標を残す。

橋下の道標と秋葉山常夜燈。道標には「左東海道」と刻まれる。常夜燈は慶応元年(1865年)建立。

柚木を行く県道396号(東海道)。

JR身延線・柚木駅。

柚木区公会堂。隣りに天白神社が鎮座。

柚木区公会堂の少し先で県道から旧道が右手に分かれる。

車の喧騒を離れて静かな柚木の旧東海道。

柚木の旧東海道沿いに残る秋葉山常夜燈。

柚木から平垣(へいがき)町に。ふるいや旅館前を行く旧東海道。

平垣札の辻跡。用水路に架かる橋は札の辻橋と呼ばれる。

札の辻跡より南側より北方向。交差点角には大正5年(1916年)に建立された「札の辻跡」碑を残す。ここは實相寺参道と旧東海道が交差する地点にあたり、平垣村の高札場が置かれたことから”札の辻”と呼ばれた。實相寺は平安時代に鳥羽法皇勅願の寺で、西に比叡山、東に實相寺と言われる程の名刹、方一里と言われた敷地はここ”札の辻”まで及んでいたという。

富士大通りの交差点角に並び建つ栄立寺(写真手前)、金正禅寺(写真奥)。

金正禅寺山門。江戸時代中期の宝暦年間、荒廃していた金正禅寺は再興されるのだが、これに尽力したのが平垣村の松永家で、寺の西隣りにあるフジホワイトホテルの敷地一帯を屋敷地に持つ豪農だったという。

平垣本町を行く旧東海道。

平垣本町から本町へ。富士本町通りの商店街を横切り。

富士税務署前の旧東海道。前方には王子マテリア富士工場の煙突。

本市場一里塚跡。江戸日本橋から36里(約141km)、京三条大橋からは79番目で実測約377km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる。

本市場一里塚の跡地には”本市場一区協力の園”、一角に「旧東海道一里塚」碑を置く。

本市場一里塚の先で県道396号(東海道)を横切る。この辺りから間の宿として栄えた本市場の町家が軒を連ね、左手に小休本陣があった。

本市場町にある法源寺。富士山をバックに。

本市場を行く旧東海道。右手前が鶴の茶屋跡で、文政3年(1820年)に建立された鶴芝の碑が残る。当時、ここから富士山を眺めると山腹に鶴が舞うに見えたことから、その奇観を京の画家”盧洲”が描き残した。これに江戸の学者・亀田鵬斉が詩文を添えて鶴芝の碑が建立された。

これが鶴芝の碑。

鶴芝の碑付近から望む富士山。残念ながら残雪に鶴が舞う奇観は見られなかった。そりゃそうだな…。

総合庁舎北交差点。

本市場から蓼原町に入り、山神社バス停。

蓼原の単体道祖神。ここが旧蓼原村の川原宿にあたることから川原宿の単体道祖神とも。通称を”袂の塞神(さえがみ)”、塀の中で今も道行く人を見守る。

潤井(うるい)川に架かる富安橋。古くは三度橋という橋が架けられていた。江戸時代に江戸と上方を月に3往復する”三度飛脚”を生業とする”三度屋”という問屋があり、青島・高島・蓼原村の3ヶ村の要請で建設費用に42両もの大金を出したことから、三度橋と名付けられたという。

富安橋東詰、旧東海道は右折し。

県道396号(東海道)に合流。

高島交差点で旧道は県道を左斜めに分かれ、高島町から青島町に。

青島町の旧道路傍にポツンと道祖神。

碑面に大きく「道祖神」と刻む。はっきりしないが、碑面右端には明治廿九年と見える。

青嶋八幡宮神社参道。

参道入口にある荒田嶋庚申道標。碑面には「是より荒田嶋庚申江道法六丁」と刻む。天明3年(1783年)建立。

青嶋八幡宮神社。別名を”磔八幡”と言う。この神社の起源は江戸時代初期に青島村の名主を務めていた川口家の屋敷神にあると伝わる。五代将軍綱吉の時代、村民か高潮等の被害で苦しい生活を強いられる中、過酷に行われた検地を、時の名主川口市郎兵衛は村民の生活を守るために断固として拒否。この行動によって幕府の役人に捕らえられ磔刑に処せられた。これを知った村民は恩に報いようと市郎兵衛の御霊を八幡神社に合祀し、以来”磔八幡”と呼び祀ってきたという。

青島町を行く旧東海道。

永田町に入ってすぐ、旧東海道は青葉通りの大道に分断消失。

反対(江戸方)側に移動して蒲原宿(京)方の分断地点を望む。

青葉通り付近の旧東海道は、昭和41年(1966年)市町合併による区画整理事業で消失。現在はこれを偲んで跡地に解説板を設け、青島町で使われていた石橋の石を敷く。

錦町で現れた旧東海道(江戸方)。もうすぐ吉原宿だ。
